、そのおでんやに食事をしに来て、その時、私は、年少の友人ふたりを相手に泥酔《でいすい》していて、ふとその女のひとに話しかけ、私たちの席に参加してもらって、私はそのひとと握手をした、それだけの附合いしか無かったのであるが、
「遊ぼう。これから、遊ぼう。大いに、遊ぼう。」
と私がそのひとに言った時に、
「あまり遊べない人に限って、そんなに意気込むものですよ。ふだんケチケチ働いてばかりいるんでしょう?」
とそのひとが普通の音声で、落ちついて言った。
私は、どきりとして、
「よし、そんならこんど逢った時、僕の徹底的な遊び振りを見せてあげる。」
と言ったが、内心は、いやなおばさんだと思った。私の口から言うのもおかしいだろうが、こんなひとこそ、ほんものの不健康というものではなかろうかと思った。私は苦悶《くもん》の無い遊びを憎悪する。よく学び、よく遊ぶ、その遊びを肯定する事が出来ても、ただ遊ぶひと、それほど私をいらいらさせる人種はいない。
ばかな奴だと思った。しかし、私も、ばかであった。負けたくなかった。偉そうな事を言ったって、こいつは、どうせ俗物に違いないんだ。この次には、うんと引っぱり歩いて、こづきまわして、面皮をひんむいてやろうと思った。
いつでもお相手をするから、気のむいたときに、このおでんやに来て、そうして女中を使って僕を呼び出しなさい、と言って、握手をしてわかれたのを、私は泥酔していても、忘れてはいなかった。
と書けば、いかにも私ひとり高潔の、いい子のようになってしまうが、しかし、やっぱり、泥酔の果の下等な薄汚いお色気だけのせいであったのかも知れない。謂《い》わば、同臭相寄るという醜怪な図に過ぎなかったのかも知れない。
私は、その不健康な、悪魔の許《もと》にいそいで出掛けた。
「おめでとう。新年おめでとう。」
私はそんな事を前田さんに、てれ隠しに言った。
前田さんは、前は洋装であったが、こんどは和服であった。おでんやの土間の椅子に腰かけて、煙草を吸っていた。痩《や》せて、背の高いひとであった。顔は細長くて蒼白く、おしろいも口紅もつけていないようで、薄い唇は白く乾いている感じであった。かなり度の強い近眼鏡をかけ、そうして眉間《みけん》には深い縦皺《たてじわ》がきざまれていた。要するに、私の最も好かない種属の容色であった。先夜の酔眼には、も少しましなひとに見えたのだが、いま、しらふでまともに見て、さすがにうんざりしたのである。
私はただやたらにコップ酒をあおり、そうして、おもに、おでんやのおかみや女中を相手におしゃべりした。前田さんは、ほとんど何も口をきかず、お酒もあまり飲まなかった。
「きょうは、ばかに神妙じゃありませんか。」
と私は実に面白くない気持で、そう言ってみた。
しかし、前田さんは、顔を伏せたまま、ふんと笑っただけだった。
「思い切り遊ぶという約束でしたね。」と私はさらに言った。「少し飲みなさいよ。こないだの晩は、かなり飲みましたね。」
「昼は、だめなんですの。」
「昼だって、夜だって同じ事ですよ。あなたは、遊びのチャンピオンなんでしょう?」
「お酒は、プレイのうちにはいりませんわ。」
と小生意気な事を言った。
私はいよいよ興覚めて、
「それじゃ何がいいんですか? 接吻《せっぷん》ですか?」
色婆め! こっちは、子わかれの場まで演じて、遊びの附合いをしてやっているんだ。
「わたくし、帰りますわ。」女はテーブルの上のハンドバッグを引き寄せ、「失礼しました。そんなつもりで、お呼びしたのでは、……」と言いかけて、泣き面《つら》になった。
それは、実にまずい顔つきであった。あまりにまずくて、あわれであった。
「あ、ごめんなさい。一緒に出ましょう。」
女は幽《かす》かに首肯《うなず》き、立って、それから、はなをかんだ。
一緒に外へ出て、
「僕は野蛮人でね、プレイも何も知らんのですよ。お酒がだめなら、困ったな。」
なぜこのまますぐに、おわかれが出来ないのだろう。
女は、外へ出ると急に元気になって、
「恥をかきましたわ。あそこのおでんやは、わたくし、せんから知っているんですけど、きょう、あなたをお呼びしてって、おかみさんにたのんだら、とてもいやな、へんな顔をするんですもの。わたくしなんかもう、女でも何でも無いのに、いやあねえ。あなたは、どうなの? 男ですか?」
いよいよキザな事を言う。しかし、それでも私は、まださよならが言えなかった。
「遊びましょう。何かプレイの名案が無いですか?」
と、気持とまるで反対の事を、足もとの石ころを蹴《け》って言った。
「わたくしのアパートにいらっしゃいません? きょうは、はじめから、そのつもりでいたのよ。アパートには、面白いお友達がたくさんいますわ。」
私は憂鬱《ゆううつ》であった。気がすすまないのだ。
「アパートに行けば、すばらしいプレイがあるのですか?」
くすと笑って、
「何もありやしませんわ。作家って、案外、現実家なのねえ。」
「そりゃ、……」
と私は、言いかけて口を噤《つぐ》んだ。
いた! いたのだ。半病人の家の者が、白いガーゼのマスクを掛けて、下の男の子を背負い、寒風に吹きさらされて、お米の配給の列の中に立っていたのだ。家の者は、私に気づかぬ振りをしていたが、その傍に立っている上の女の子は、私を見つけた。女の子は、母の真似《まね》をして、小さい白いガーゼのマスクをして、そうして白昼、酔ってへんなおばさんと歩いている父のほうへ走って来そうな気配を示し、父は息《いき》の根のとまる思いをしたが、母は何気無さそうに、女の子の顔を母のねんねこの袖《そで》で覆《おお》いかくした。
「お嬢さんじゃありません?」
「冗談じゃない。」
笑おうとしたが、口がゆがんだだけだった。
「でも、感じがどこやら、……」
「からかっちゃいけない。」
私たちは、配給所の前を通り過ぎた。
「アパートは? 遠いんですか?」
「いいえ、すぐそこよ。いらして下さる? お友達がよろこぶわ。」
家の者にお金を置いて来なかったが、大丈夫なのかしら。私は脂汗《あぶらあせ》を流していた。
「行きましょう。どこか途中に、ウイスキイでも、ゆずってくれる店が無いかな?」
「お酒なら、わたくし、用意してありますわ。」
「どれくらい?」
「現実家ねえ。」
アパートの、前田さんの部屋には、三十歳をとうに越えて、やはりどうにも、まともでない感じの女が二人、あそびに来ていた。そうして色気も何もなく、いや、色気におびえて発狂気味、とでも言おうか、男よりも乱暴なくらいの態度で私に向って話しかけ、また女同士で、哲学だか文学だか美学だか、なんの事やら、まるでちっともなっていない、阿呆《あほ》くさい限りの議論をたたかわすのである。地獄だ、地獄だ、と思いながら、私はいい加減のうけ応えをして酒を飲み、牛鍋《ぎゅうなべ》をつつき散らし、お雑煮《ぞうに》を食べ、こたつにもぐり込んで、寝て、帰ろうとはしないのである。
義。
義とは?
その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。
底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年5月30日第1刷発行
1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年1月23日公開
2005年11月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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