て、寝て、片手で顔を覆《おお》い、小声で、あああ、と言って、やがて、死んだように深く眠る。
朝、同僚のひとりにゆり起された。
「おい、鶴。どこを、ほっつき歩いていたんだ。三鷹の兄さんから、何べんも会社へ電話が来て、われわれ弱ったぞ。鶴がいたなら、大至急、三鷹へ寄こしてくれるようにという電話なんだ。急病人でも出来たんじゃないか? ところがお前は欠勤で、寮にも帰って来ないし、森ちゃんも心当りが無いと言うし、とにかくきょうは三鷹へ行って見ろ。ただ事でないような兄さんの口調だったぜ。」
鶴は、総毛立《そうけだ》つ思いである。
「ただ、来いとだけ言ったのか。他には、何も?」
既にはね起きてズボンをはいている。
「うん、何でも急用らしい。すぐ行って来たほうがいい。」
「行って来る。」
何が何だか、鶴にはわけがわからなくなって来た。自分の身の上が、まだ、世間とつながる事が出来るのか。一瞬、夢見るような気持になったが、あわててそれを否定した。自分は人類の敵だ。殺人鬼である。
既に人間では無いのである。世間の者どもは全部、力を集中してこの鬼一匹を追い廻しているのだ。もはや、それこそ蜘蛛《くも》の巣のように、自分をつかまえる網が行く先、行く先に張りめぐらされているのかも知れぬ。しかし、自分にはまだ金がある。金さえあれば、つかのまでも、恐怖を忘れて遊ぶ事が出来る。逃げられるところまでは、逃げてみたい。どうにもならなくなった時には、自殺。
鶴は洗面所で歯を強くみがき、歯ブラシを口にふくんだまま食堂に行き、食卓に置かれてある数種類の新聞のうらおもてを殺気立った眼つきをして調べる。出ていない。どの新聞も、鶴の事に就《つ》いては、ひっそり沈黙している。この不安。スパイが無言で自分の背後に立っているような不安。ひたひたと眼に見えぬ洪水が闇の底を這って押し寄せて来ているような不安。いまに、ドカンと致命的な爆発が起りそうな不安。
鶴は洗面所で嗽《うが》いして、顔も洗わず部屋へ帰って押入れをあけ、自分の行李《こうり》の中から、夏服、シャツ、銘仙《めいせん》の袷《あわせ》、兵古帯《へこおび》、毛布、運動靴、スルメ三|把《ば》、銀笛、アルバム、売却できそうな品物を片端から取り出して、リュックにつめ、机上の目覚時計までジャンパーのポケットにいれて、朝食もとらず、
「三鷹へ行って来る。」
と、か
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