ども、そこで降りてみて、いいようだったら、そこで一泊して、それから多少、迂余曲折《うよきょくせつ》して、上諏訪のあの宿へ行こう、という、きざな、あさはかな気取りである。含羞《がんしゅう》でもあった。
 汽車に乗る。野も、畑も、緑の色が、うれきったバナナのような酸い匂いさえ感ぜられ、いちめんに春が爛熟《らんじゅく》していて、きたならしく、青みどろ、どろどろ溶けて氾濫《はんらん》していた。いったいに、この季節には、べとべと、噎《む》せるほどの体臭がある。
 汽車の中の笠井さんは、へんに悲しかった。われに救いあれ。みじんも冗談でなく、そんな大袈裟《おおげさ》な言葉を仰向いてこっそり呟《つぶや》いた程である。懐中には、五十円と少し在った。
「アンドレア・デル・サルトの、……」
 ばかに大きな声で、突然そんなことを言い出した人があるので、笠井さんは、うしろを振りむいた。登山服着た青年が二人、同じ身拵《みごしら》えの少女が三人。いま大声を発した男は、その一団のリイダア格の、ベレ帽をかぶった美青年である。少し日焼けして、仲々おしゃれであるが、下品である。
 アンドレア・デル・サルト。その名前を、そっ
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