まだまだロマンチシズムは、残って在る筈《はず》だ。笠井さんは、ことし三十五歳である。けれども髪の毛も薄く、歯も欠けて、どうしても四十歳以上のひとのように見える。妻と子のために、また多少は、俗世間への見栄《みえ》のために、何もわからぬながら、ただ懸命に書いて、お金をもらって、いつとは無しに老けてしまった。笠井さんは、行い正しい紳士である、と作家仲間が、決定していた。事実、笠井さんは、良い夫、良い父である。生来の臆病と、過度の責任感の強さとが、笠井さんに、いわば良人《おっと》の貞操をも固く守らせていた。口下手ではあり、行動は極めて鈍重だし、そこは笠井さんも、あきらめていた。けれども、いま、おのれの芋虫に、うんじ果て、爆発して旅に出て、なかなか、めちゃな決意をしていた。何か光を。
下諏訪まで、切符を買った。家を出て、まっすぐに上諏訪へ行き、わきめも振らずあの宿へ駈け込み、そうして、いきせき切って、あのひと、いますか、あのひと、いますか、と騒ぎたてる、そんな形になるのが、いやなので、わざと上諏訪から一つさきの下諏訪まで、切符を買った。笠井さんは、下諏訪には、まだいちども行ったことがない。けれ
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