ろりと落した。カチャンと澄んだ音がして、ガラスがこまかくこわれた。もはや修繕《しゅうぜん》の仕様も無い。時計のガラスなんか、どこにも売ってやしない。
「なんだ、もう駄目か。」
 私は、がっかりした。
「ばかねえ。」と義妹は低くひとりごとのように言い、けれども、その唯一といっていいくらいの財産が一瞬にして失われた事を、さして気にも留めていない様子だったので、私は少しほっとした。
 そのお家の庭の隅《すみ》で炊事《すいじ》をして、その夕方、六畳間でみんな早寝という事になり、けれども妻も義妹もひどく疲れていながらなかなか眠れぬ様子で、何かと身の振方などに就いて小声で相談している。
「なに、心配する事はないよ。みんなで、おれの生れ故郷へ行くさ。何とかなるよ。」
 妻も妹も沈黙した。私のどんな意見も、この二人には、前からあまり信用されていないのである。二人は、めいめい他の事を考えているらしく、何とも答えない。
「やっぱりどうも、おれは信用が無いようだな。」と私は苦笑して、「けれども、たのむから、こんどだけは、おれの言うとおりにしてくれ。」
 妹は暗闇の中で、クスクス笑った。そんなにおっしゃってもと、いうような気持らしい。そうして、すぐまた他の事に就いて妻とひそひそ相談をはじめる。
「それじゃまあ勝手にするさ。」と私も笑いながら言い、「どうも、おれは信用が無いので困る。」
「そりゃそうよ。」と妻は突然、あらたまったような口調で言い、「父さんは、いつでも本気なのか冗談なのかわからないような非常識な事ばかりおっしゃるんだもの。信用の無いのは当り前よ。こんなになっても、きっとお酒の事ばかり考えていらっしゃるんだから。」
「まさか、それほどでもなかろう。」
「でも、今晩だって、お酒があったら、お飲みになるでしょう。」
「そりゃ、飲む、かも知れない。」
 とにかく、このお家にもこれ以上ご厄介《やっかい》をかけてはいけない、明日、また他の家を捜そうという事に二人の相談はまとまった様子で、翌《あく》る日、れいの穴から掘り出した品々を大八車《だいはちぐるま》に積んで、妹のべつの知人のところへ行った。そこのお家は、かなり広く、五十歳くらいの御主人は、なかなかの人格者のように見受けられた。私たちは奥の十畳間を貸していただく事が出来た。病院も、見つけた。
 県立病院が焼けて、それが郊外の或る焼け残っ
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