かな嘘をついていたのである。当時、私に好きな女があったのである。そいつと別れたくないばかりに、いい加減の口実を設け、洋行を拒否したのである。この女のことでは、後にひどい苦労をした。しかし、私はいまでは、それらのことを後悔してはいない。洋行するよりは、貧しく愚かな女と苦労することのほうが、人間の事業として、困難でもあり、また、光栄なものであるとさえ思っているからだ。
 とかく、洋行者の土産話ほど、空虚な響きを感じさせるものはない。田舎者の東京土産話というものと、甚だ似ている。名所絵はがき。そこには、市民の生活のにおいが何も無い。
 論文に譬《たと》えると、あの婦人雑誌の「新婦人の進路」なんていう題の、世にもけがらわしく無内容な、それでいて何やら意味ありそうに乙にすましているあの論文みたいなものだということになりそうだ。
 どんなに自分が無内容でも、卑劣でも、偽善的でも、世の中にはそんな仲間ばかり、ごまんといるのだから、何も苦しんで、ぶちこわしの嫌がらせを言う必要はないだろう、出世をすればいいのだ、教授という肩書を得ればいいのだ、などとひそかにお思いになっていらっしゃるのなら、我また何をか言わんやである。
 しかし、世の学者たちは、この頃、妙に私の作品に就いて、とやかく言うようになった。あいつらは、どうせ馬鹿なんで、いつの世にでも、あんなやつらがいるのだから、気にするなよ、とひとから言われたこともあるが、しかし、私はその不潔な馬鹿ども(悪人と言ってもよい)の言うことを笑って聞き容れるほどの大腹人でもないし、また、批評をみじんも気にしないという脱俗人(そんな脱俗人は、古今東西、ひとりもいなかった事を保証する)ではなし、また、自分の作品がどんな悪評にも絶対にスポイルされないほど剛《つよ》いものだという自信を持つことも出来ないので、かねて胸くそ悪く思っているひとの言動に対し、いまこそ、自衛の抗議をこころみているわけなのだ。
 或る「外国文学者」が、私の「ヴィヨンの妻」という小説の所謂読後感を某文芸雑誌に発表しているのを読んだことがあるけれども、その頭の悪さに、私はあっけにとられ、これは蓄膿症《ちくのうしょう》ではなかろうか、と本気に疑ったほどであった。大学教授といっても何もえらいわけではないけれども、こういうのが大学で文学を教えている犯罪の悪質に慄然《りつぜん》とした。
 そいつが言うのである。(フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではないように聞いていますが)何というひねこびた虚栄であろう。しゃれにも冗談にもなってやしない。嫌味にさえなっていない。かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰《いわ》く、(作者は、この作品の蔭でイヒヒヒヒと笑っている)事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑《おか》しく馬鹿らしい思いがしてくる。何という空想力の貧弱。そのイヒヒヒヒと笑っているのは、その先生自身だろう。実にその笑い声はその先生によく似合う。
 あの作品の読者が、例えば五千人いたとしても、イヒヒヒヒなどという卑穢な言葉を感じたものはおそらく、その「高尚」な教授一人をのぞいては、まず無いだろうと私には考えられる。光栄なる者よ。汝は五千人中の一人である。少しは、恥かしく思え。
 元来、作者と評者と読者の関係は、例えば正三角形の各頂点の位置にあるものだと思われるが、(△の如き位置に、各々外を向いて坐っていたのでは話にもならないが、各々内側に向い合って腰を掛け、作者は語り、読者は聞き、評者は、或いは作者の話に相槌《あいづち》を打ち、或いは不審を訊《ただ》し、或いは読者に代って、そのストップを乞う。)この頃、馬鹿教授たちがいやにのこのこ出て来て、例えば、直線上に二点を置き、それが作者と読者だとするならば、教授は、その同一線上の、しかも二点の中間に割り込み、いきなり、イヒヒヒヒである。物語りさいちゅうの作者も、また読者も、実にとまどい困惑するばかりである。
 こんなことまでは、さすがに私も言いたくないが、私は作品を書きながら、死ぬる思いの苦しき努力の覚えはあっても、イヒヒヒヒの記憶だけは、いまだ一度も無い、いや、それは当然すぎるほど当然のことではないか。こう書きながらも、つくづくおまえの馬鹿さが嫌になり、ペンが重く顔がしかめ面《つら》になってくる。
 最初に掲げた聖書の言葉にもあったとおり、禍害《わざわい》なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに与《くみ》せざりしものを」と。
 百年二百年或いは三百年前の、謂わばレッテルつきの文豪の仕事な
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