おさまるようになったら、一週間くらいでよくなると言っていました。
(あさ)(薄笑いして)そうだといいがねえ。あたしは、もうだめなような気がするよ。その他にも何か病気があるんだろう? 手足がまるで動かない。
(数枝) そりゃお医者に見せたら、達者な人でも、いろんな事を言われるんだもの、それをいちいち気にしていたら、きりが無いわ。
(あさ) なんと言ったのだい。
(数枝) いいえ、何でも無いのよ。ただね、軽い脳溢血《のういっけつ》の気味があるようだとか、それから、脈がどうだとか、こうだとか、何だかいろいろ言っていたけど忘れちゃったわ。(おどけた口調で)要するにね、食べたいものを何でも、たくさん召上ったらなおるのよ。数枝という女博士の診断なら、そうだわ。
(あさ)(厳粛に)数枝、あたしはもう、なおりたくない。こうしてお前に看病してもらいながら早く死にたい。あたしには、それが一ばん仕合せなのです。
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茶の間の時計が、ゆっくり十時を打つのが聞える。
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(数枝)(あさの言う事に全く取り合わず、聞えぬ振りして)あら、もう十時よ。(立上り)葛湯《くずゆ》でもこしらえて来ましょう。本当に、何か召し上らないと。(言いながら上手の障子をあけて)おお、きょうは珍らしくいいお天気。
(あさ) 数枝、ここにいてくれ。何を食べても、すぐ吐きそうになって、かえって苦しむばかりだから。どこへも行かないで、あたしの傍にいてくれ。お前に、すこし言いたい事がある。
(数枝)(障子を静かにしめて、また病床の傍に坐り、あかるく)どうしたの? ね、お母さん。
(あさ) 数枝、お前はもう、東京へは帰らないだろうね。
(数枝)(あっさり)帰るつもりだわ。お父さんはあたしに、出て行けと言ったじゃないの。そうして、あの日からもう、あたしにはろくに口もききやしないんだもの。帰るより他は無いじゃないの。
(あさ) あたしがこんなに寝たきりになってもかい。
(数枝) お母さんの病気なんか、すぐなおるわよ。そりゃ、なおるまでは、やっぱりあたし、お父さんがどんなに出て行けって言ったって、この家に頑張《がんば》ってお母さんの看病をさせていただくつもりだけど。
(あさ) 何年でもかい。
(数枝) 何年でもって、(笑って)お母さん、すぐなおるわよ。
(あさ)(首を振り)だめ、だめ。あたしには、わかっています。数枝、あたしにもしもの事があったら、お前は、お父さんひとりをこの家に残して東京へ行くのですか。
(数枝) もう、いや。そんな話。(顔をそむけて泣く)もしも、そうなったら、もしも、そうなったら、数枝も死んでしまうから。
(あさ)(溜息をついて)あたしはお前を、世界で一ばん仕合せな子にしたかったのだけど、逆になってしまった。
(数枝) いいえ、あたしだけが不仕合せなんじゃないわ。いま日本で、ひとりでも、仕合せな人なんかあるかしら。あたしはね、お母さん、さっきこんな手紙を書いてみたのよ。(ふところから先刻書きかけの手紙を取り出し、小さくはしゃいで)ちょっと読んでみるわね。(小声で読む)拝啓。為替《かわせ》三百円たしかにいただきました。こちらへ来てから、お金の使い道がちっとも無くて、あなたからこれまで送っていただいたお金は、まだそっくりございます。あなたのほうこそ、いくらでもお金が要《い》るでございましょうに、もうこれからは、お金をこちらへ送って寄こしてはいけません。そうして、もしそちらでお金が急に要るような事があったら、電報でお知らせ下さいまし。こちらでは、本当になんにも要らないのですから、いくらでもすぐにお送り申します。それまで、おあずかり致して置きましょう。さて、相変らずお仕事におはげみの御様子、ことしの展覧会は、もうすぐはじまるとか、お正月がすぎたばかりなのに、ずいぶん早いのね。展覧会にお出しになる絵も、それでは、もうそろそろ出来上った頃と思います。新しい現実を描かなければならぬと、こないだのお手紙でおっしゃって居られましたが、何をおかきになったの? 上野駅前の浮浪者の群ですか? あたしならば、広島の焼跡をかくんだがなあ。そうでなければ、東京の私たちの頭上に降って来たあの美しい焔《ほのお》の雨。きっと、いい絵が出来るわよ。私のところでは、母が十日ほど前に、或《あ》るいやな事件のショックのために卒倒して、それからずっと寝込んで、あたしが看病してあげていますけど、久し振りであたしは、何だか張り合いを感じています。あたしはこの母を、あたしの命よりも愛しています。そうして母も、それと同じくらいあたしを愛しているのです。あたしの母は、立派な母です。そうして、それから、美しい母です。
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