め。(庖丁を取り上げ、あさを蹴倒《けたお》し、外にのがれ出る。どさんと屋根から下へ飛び降りる音が聞える)
(数枝)(あさに武者振りついて)お母さん! つらいわよう。(子供のように泣く)
(あさ)(数枝を抱きかかえ)聞いていました。立聞きして悪いと思ったけど、お前の身が案じられて、それで、……(泣く)
(数枝) 知っていたわよう。お母さんは、あの襖の蔭で泣いていらした。あたしには、すぐにわかった。だけどお母さん、あたしの事はもう、ほっといて。あたしはもう、だめなのよ。だめになるだけなのよ。一生、どうしたって、幸福が来ないのよ。お母さん、あたしを東京で待っているひとは、あたしよりも年がずっと下のひとだわ。
(あさ)(おどろく様子)まあ、お前は。(数枝をひしと抱きかかえ)仕合せになれない子だよ。
(数枝)(いよいよ泣き)仕様が無いわ。仕様が無いわ。あたしと睦子が生きて行くためには、そうしなければいけなかったのよ。あたしが、わるいんじゃないわよ。あたしが、わるいんじゃないわよ。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから2字下げ]
雪が間断なく吹き込む。その辺の畳も、二人の髪、肩なども白くなって行く。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]――幕。

     第三幕

[#ここから2字下げ]
舞台は、伝兵衛宅の奥の間。正面は堂々たる床の間だが、屏風《びょうぶ》が立てられているので、なかば以上かくされている。屏風はひどく古い鼠色《ねずみいろ》になった銀屏風。しかし、破れてはいない。上手《かみて》は障子。その障子の外は、廊下の気持。廊下のガラス戸から朝日がさし込み、障子をあかるくしている。下手《しもて》は襖《ふすま》。
幕あくと、部屋の中央にあさの病床。あさは、障子のほうを頭にして仰向に寝ている。かなりの衰弱。眠っている。枕元《まくらもと》には薬瓶《くすりびん》、薬袋、吸呑《すいの》み、その他。病床の手前には桐《きり》の火鉢《ひばち》が二つ。両方の火鉢にそれぞれ鉄瓶がかけられ、湯気が立っている。数枝、障子に向った小机の前に坐って、何か手紙らしいものを書いている。

第二幕より、十日ほど経過。

数枝、万年筆を置いて、机に頬杖《ほおづえ》をつき障子をぼんやり眺め、やがて声を立てずに泣く。
間。
あさ、眠りながら苦しげに呻《うめ》く。呻きが、つづく。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(数枝)(あさのほうを見て、机上の書きかけの手紙を畳んでふところにいれ、それから、立ってあさのほうへ行き、あさをゆり起し)お母さん、お母さん。
(あさ) ああ、(と眼ざめて深い溜息《ためいき》をつく)ああ、お前かい。
(数枝) どこか、お苦しい?
(あさ) いいえ、(溜息)何だかいやな、おそろしい夢を見て、……(語調をかえて)睦子は?
(数枝) けさ早く、おじいちゃんに連れられて弘前《ひろさき》へまいりました。
(あさ) 弘前へ? 何しに?
(数枝) あら、ご存じ無かったの? きのう来ていただいたお医者さんは、弘前の鳴海《なるみ》内科の院長さんよ。それでね、お父さんがきょう、鳴海先生のとこへお薬をもらいに行ったの。
(あさ) 睦子がいないと、淋《さび》しい。
(数枝) 静かでかえっていいじゃないの。でも、子供ってずいぶん現金なものねえ。おばあちゃんが御病気になったら、もうちっともおばあちゃんの傍には寄りつかず、こんどはやたらにおじいちゃんにばかり甘えて、へばりついているのだもの。
(あさ) そうじゃないよ。それはね、おじいちゃんが一生懸命に睦子のご機嫌《きげん》をとったから、そうなったのさ。おじいちゃんにして見れば、ここは何としても睦子を傍に引寄せていたいところだろうからね。
(数枝) あら、どうして? (火鉢に炭をついだり、鉄瓶に水をさしたり、あさの掛蒲団《かけぶとん》を直してやったり、いろいろしながら気軽い口調で話相手になってやっている)
(あさ) だって、あたしがいなくなった後でも、睦子がおじいちゃんになついて居れば、お前だって、東京へ帰りにくくなるだろうからねえ。
(数枝)(笑って)まあ、へんな事を言うわ。よしましょう、ばからしい。林檎《りんご》でもむきましょうか。お医者さんはね、何でも食べさえすれば、よくなるとおっしゃっていたわよ。
(あさ)(幽《かす》かに首を振り)食べたくない。なんにもいただきたくない。きのう来たお医者さんは、あたしの病気を、なんと言っていたの?
(数枝)(すこし躊躇《ちゅうちょ》して、それから、はっきりと)胆嚢炎《たんのうえん》、かも知れないって。この病気は、お母さんのように何を食べてもすぐ吐くのでからだが衰弱してしまって、それで危険な事があるけれども、でも、いまに食べものがおなかに
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