あたしがあの、ほとんど日本国中が空襲を受けているまっさいちゅうに、あなたたちのとめるのも振り切って、睦子を連れてまるで乞食《こじき》みたいな半狂乱の恰好《かっこう》で青森行きの汽車に乗り、途中何度も何度も空襲に遭《あ》って、いろいろな駅でおろされて野宿し、しまいには食べるものが無くなって、睦子と二人で抱き合って泣いていたら、或る女学生がおにぎりと、きざみ昆布《こんぶ》と、それから固パンをくれて、睦子はうれしさのあまり逆上したのか、そのおにぎりを女学生に向って怒って投げつけたりなどして、まあ、あさましい、みじめな乞食の親子になりさがり、それでもこの東北のはての生れた家へ帰りたくてならなかったのは、いま考えてみると、たしかにあたしは死ぬる前にいまいちどあたしの美しい母に逢いたい一念からだったのでした。あたしの母は、いい母です。こんどの母の病気も、もとはと言えば、あたしから起ったようなものなのです。あたしは、いまはこの母を少しでも仕合せにしてあげたい。その他の事は、いっさい考えない事にしました。母があたしにいつまでも、母の傍にいなさい、と言ったら、あたしは一生もう母の傍にいるつもりです。あなたのところへも帰らないつもりです。父は、世間に対する気がねやら、また母に対する義理やらで、早くあたしに東京へ帰れ、と言っていますが、しかし、母が病気で寝込んでしまったら、この父も、めっきり気弱く、我《が》が折れて来たようです。あたしは、もう東京へ帰らないかも知れません。もし、あなたのほうで、あたしをこいしく思って下さるなら、絵をかくのをおやめになって、この田舎へ来て、あたしと一緒にお百姓になって下さい。出来ないでしょうね。でも、そんな気になった時には、きっとおいで下さいまし。いまにあたたかくなり、雪が溶けて、田圃《たんぼ》の青草が見えて来るようになったら、あたしは毎日|鍬《くわ》をかついで田畑に出て、黙って働くつもりです。あたしは、ただの百姓女になります。あたしだけでなく、睦子をも、百姓女にしてしまうつもりです。あたしは今の日本の、政治家にも思想家にも芸術家にも誰にもたよる気が致しません。いまは誰でも自分たちの一日一日の暮しの事で一ぱいなのでしょう? そんならそうと正直に言えばいいのに、まあ、厚かましく国民を指導するのなんのと言って、明るく生きよだの、希望を持てだの、なんの意味も無いからまわりのお説教ばかり並べて、そうしてそれが文化だってさ。呆《あき》れるじゃないの。文化ってどんな事なの? 文《ぶん》のお化《ば》けと書いてあるわね。どうして日本のひとたちは、こんなに誰もかれも指導者になるのが好きなのでしょう。大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですね。おそろしい事だわ。日本はこれからきっと、もっともっと駄目になると思うわ。若い人たちは勉強しなければいけないし、あたしたちは働かなければいけないのは、それは当りまえの事なのに、それを避けるために、いろいろと、もっともらしい理窟《りくつ》がつくのね。そうしてだんだん落ちるところまで落ちて行ってしまうのだわ。ねえ、アナーキーってどんな事なの? あたしは、それは、支那《しな》の桃源境みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨《なし》や林檎《りんご》の木を植えて、ラジオも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。あたしはいまこそ、そんな部落が作れるような気がするわ。まずまあ、あたしがお百姓になって、自身でためしてみますからね。雪が消えたら、すぐあたしは、田圃に出て、(読むのをやめて、手紙を膝《ひざ》の上に置き、こわばった微笑を浮べて母のほうを見て)ここまで書いたのだけど、もうあたしは、この手紙が最後で鈴木さんとは、おわかれになるかも知れないわ。
(あさ) 鈴木さんというの?
(数枝) ええ、ずいぶんあたしたち、お世話になったわ。この方のおかげで、あたしと睦子は、あの戦争中もどうやら生きて行けたのだわ。でも、お母さん、あたしはもう、みんな忘れる。これからは一生、お母さんの傍にいるわ。考えてみると、お母さんだって、栄一が帰って来ないし、(言ってしまってから、どぎまぎして)でも、栄一は大丈夫よ。いまに、きっと元気で帰って来ると思うけど。
(あさ) お前と睦子が、この家にいてくれたら、栄一は帰って来なくても、かまいません。あの子の事は、もうあきらめているのです。数枝、あたしは栄一よりも、お前と睦子がふびんでならない。(泣く)
(数枝)
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