いき》が出るよ。
「クレヨン社の、……」
 名前まで言わせる気かい。蓄膿症《ちくのうしょう》じゃないかな?
「あ、失礼。柳川さん。」
 それは仮名《かめい》で、本名は別にあるんだけれど、教えてやらないよ。
「そうです。こないだは、ありがとう。」
「いいえ、こちらこそ。」
「どちらへ?」
「あなたは?」
 用心していやがる。
「音楽会。」
「ああ、そう。」
 安心したらしい。これだから、時々、音楽会なるものに行く必要があるんだ。
「わたくし、うちへ帰りますの、地下鉄で。新聞社にちょっと用事があったもので、……」
 何の用事だろう。嘘《うそ》だ。男と逢って来たんじゃないか? 新聞社に用事とは、大きく出たね。どうも女の社会主義者は、虚栄心が強くて困る。
「講演ですか?」
 見ろ、顔もあからめない。
「いいえ、組合の、……」
 組合? 紋切型《もんきりがた》辞典に曰《いわ》く、それは右往左往して疲れて、泣く事である。多忙のシノニム。
 僕も、ちょっぴり泣いた事がある。
「毎日、たいへんですね。」
「ええ、疲れますわ。」
 こう来なくちゃ嘘だ。
「でも、いまは民主革命の絶好のチャンスですからね。
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