「おらたち」あるいは、「この程」「当節」というような漠然たる軽い言葉のように思われてならない。いずれにもせよ、いい句ではない。主観客観の別が、あきらかでない。「雨がザアザアやかましく降っていたが私には気がつかなかった」というような馬鹿な文章に似ているところがある。はっきり客観の句だとすると、あまりにもあたりまえ過ぎて呆《あき》れるばかりだし、村人の呟きとすると、少し生彩も出て来るけれど、するとまた前句に附き過ぎる。このへん芭蕉も、凡兆にやられて、ちょっと厭気《いやけ》がさして来たのか、どうも気乗りがしないようだ。芭蕉は連句に於いて、わがままをする事がしばしばある。まるで、投げてしまう事がある。浮かぬ気持になるのであろう。それも知らずに、ただもう面白がって下手《へた》な趣向をこらしているのは去来である。去来、それにつづけて、
ただどひやうしに長き脇指
見事なものだ。滅茶苦茶だ。去来は、しすましたり、と内心ひとり、ほくほくだろうが、他の人は驚いたろう。まさに奇想天外、暗闇から牛である。仕末《しまつ》に困る。芭蕉も凡兆も、あとをつづけるのが、もう、いやになったろう。それとも知らず、
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