、その人の尊さ、かれのわびしさ、理解できぬとあれば、作家、みごとに失格である。この世に無用の長物ひとつもなし。蘭童《らんどう》あるが故に、一女優のひとすじの愛あらわれ、菊池寛の海容《かいよう》の人情讃えられ、または蘭童かかりつけの××の閨房《けいぼう》に御夫人感謝のつつましき白い花咲いた。

 ――お葉書、拝見いたしましたが、ぼくの原稿、どうしても、――だめですか?
 ――ええ。だめですねえ。これ、ほかの人書いて下さった原稿ですが、こんなのがいいのです。リアルに、統計的に、とにかく、あなたの原稿、もういちど、読んでみて下さい。そうして、考えて下さい。
 ――ぼく、もとから、へたな作家なんだ。くやし泣きに、泣いて書くより他に、てを知らなかった。
 ――失恋自殺は、どうなりました。
 ――電車賃かして下さい。
 ――…………。
 ――あてにして来たので、一銭もないのです。うちへかえればございます。すぐお返しできます。一円でも、二円でも。
 ――市内に友人ないのか。
 ――赤羽におじさん居ります。
 ――そんなら歩いてかえりたまえ。なんだい、君、すぐそこじゃないか。お濠《ほり》をぐるっとめぐって、参謀本部のとこから、日比谷へ出て、それから新橋駅へ出て、赤羽は、その裏じゃないか。
 ――そうですか、――じゃ、――ありがとう。
 ――や、しっけい。また、あそびに来たまえ。そのうち、何か、うめ合せしよう、ね。
 やっぱり怒れず、そのまま炎天の都塵、三度も、四度も、めまいして、自動車にひかれたく思って、どんどん道路横断、三里のみちを歩きながら、思うことには、人間すべて善玉だ。豪雨の一夜、郊外の泥道、這うようにして荻窪の郵便局へたどりついて一刻争う電報たのんだところ、いまはすでに時間外、規定の時を七分すぎて居ります。料金倍額いただきましょう。私はたと困惑、濡れ鼠のすがたのまま、思い設けぬこの恥辱のために満身かっかっとほてって、蚊のなくが如き声して、いま所持のお金きっちり三十銭、私の不注意でございました。なんとか助けて下さい、と懇願しても、その三十歳くらいの黄色い歯の出た痩せこけた老婆、ろくろく返事もなく、規則は規則ですからねえ、と呟いて、そろばんぱちぱち、あまりのことに私は言葉を失い、しょんぼり辞去いたしましたが、篠《しの》つく雨の中、こんなばかげたことがあろうか、まごうかたなき悪玉、私うまれてこのかた二十八年、あとにもさきにも、かの女事務員ひとり、他は、すべて、私と同じくらいの無心の善人でございました。いまのあの編輯人の無礼も、かれの全然無警戒のしからしめた外貌にすぎない。作家というものは、なんでもわかって、こちとらの苦しみすべて呑みこんでいるのだ、怒り給うことなし、ときめてしまって甘えて居る。可愛さあまって憎さが百倍とは、このことであろうか、などと一文の金もなき謂わば賤民、人相よく、ひとりで呟いてひとりで微笑んでいた。私は、この世の愚昧《ぐまい》の民を愛する。

     九唱 ナタアリヤさん、キスしましょう

 その翌、翌日、まえの日の賤民とはちがって、これは又、帝国ホテルの食堂、本麻の蚊がすり、ろの袴《はかま》、白|足袋《たび》の、まごうかたなき、太宰治。ふといロイド眼鏡かけて、ことし流行とやらのオリンピックブルウのドレス着ている浅田夫人、幼な名は、萱野《かやの》さん。ふたり涼しげに談笑しながら食事していた。きのう、私、さいごの手段、相手もあろうに、萱野さんから、二百円、いや、拾円紙幣二十枚お借りした。資生堂二階のボックスでお逢いして、私が二百円と言いもおわらぬうちに、三度も四度もあわてて首肯《うなず》き、さっと他の話にさらっていった。二時間のち、同じところで二十枚のばいきんだらけのくしゃくしゃ汚き紙片、できるだけむぞうさに手交して、宅のサラリイ前借りしたのよ、と小さく笑った萱野さんの、にっくき嘘、そんな端々にまで、私の燃ゆる瞳の火を消そうと警戒の伏線、私はそれを悲しく思った。その夜、花の都、ネオンの森とやらの、その樹樹のまわりを、くぐり抜け、すり抜け、むなしくぐるぐる駈けずりまわった。使えないのだ。どうしても、そのお金を使えないのだ。奴婢《ぬひ》の愛。女中部屋の縁《へり》のない赤ちゃけた畳、びんつけ油のにおい、竹の行李《こうり》の底から恥かしき三徳《さんとく》出して、一枚、二枚とくしゃくしゃの紙幣、わが目前にならべられて与えられたような気がして、夜明けと共に、電話した。思いがけぬ大金ころがりこんで、お金お返しできますから、と事務的の口調で言って、場所は、帝国ホテル、と附け加えた。華麗豪壮の、せめて、おわかれの場を創りあげたかった。
 その日、快晴、談笑の数刻の後、私はお金をとり出し、昨夜の二十枚よりは、新しい、別な二十枚であることを
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