言外に匂わせながら、しかも昨夜この女から受けとったままに、うちの三枚の片隅に赤インキのシミあったことに、はっと気づいて、もうおそい、萱野さん気づかぬように、気づかぬように、人知れぬ深い祈り、ミレエの晩鐘におとらず深き、人生の幕の陰の祈り。
「萱野さん、かぞえて下さい。きちんとして置こうよ。気まずさも、一時の気まずさも、生きて行くために、どうしても必要なことなのだから。」
言葉のままに、わかる女だ。こちらの気持ちを、そのまま正確にキャッチ、やや口ひきしめて首肯き、おぼつかなき風の手つきで、かぞえた。十七枚。ふと首かしげて、とっさに了解。薔薇《ばら》は蘇生した。ゆっくり真紅|含羞《がんしゅう》の顔をあげて、私の、ずるい、平気な笑顔を見つけて、小娘のような無染の溜息、それでも、「むずかしいのねえ、ありがとう。」とかしこい一言、小声でいうのを忘れなかった。そうして、わかれた。一万五千円の学費つかって、学問して、そうして、おぼえたものは、ふたり、同じ烈しき片思いのまま、やはりこのまま、わかれよ、という、味気ない礼儀、むざんの作法。ああ、まこと、憤怒は、愛慾の至高の形貌《けいぼう》にして、云々。
十唱 あたしも苦しゅうございます
おい、襖《ふすま》あけるときには、気をつけてお呉れ、いつ何時、敷居にふらっと立って居るか知れないから、と某日、笑いながら家人に言いつけたところ、家人、何も言わず、私の顔をつくづく見つめて、あきらかにかれ、発狂せむほどの大打撃、口きけぬほどの恐怖、唇までまっしろになって、一尺、二尺、坐ったままで後ずさりして、ついには隣りの六畳まで落ちのびて、はじめて人ごこち取りかえした様子、声を出さずに慟哭《どうこく》はじめた。家人の緊張は、その日より今にいたるまで、なかなか解止せず、いつの間にやら衣紋竹《えもんだけ》を全廃していた。なるほどな、とそのときはじめて気づいたことだが、かの衣紋竹にぞろっと着物かかって居るかたちは、そっくり、あの姿そのままでございました。そのほかにも、かれ、蚊帳吊るため部屋の四隅に打ちこまれてある三寸くぎ抜かばやと、もともと四尺八寸の小女、高所の釘と背のびしながらの悪戦苦闘、ちらと拝見したこともございました。
いま庭の草むしっている家人の姿を、われ籐椅子《とういす》に寝ころんだまま見つめて、純白のホオムドレス、いよいよ看護婦に似て来たな、と可哀そうに思っています。わが家の悪癖、かならず亭主が早死《はやじに》して、一時は、曾祖母、祖母、母、叔母、と四人の後家さんそろって居ました。わけても叔母は、二人の亭主を失った。
終唱 そうして、このごろ
芸術、もともと賑やかな、華美の祭礼。プウシュキンもとより論を待たず、芭蕉、トルストイ、ジッド、みんなすぐれたジャアナリスト、釣舟の中に在っては、われのみ簑《みの》を着して船頭ならびに爾余《じよ》の者とは自らかたち分明の心得わすれぬ八十歳ちかき青年、××翁の救われぬ臭癖見たか、けれども、あれでよいのだ。芸術、もとこれ、不倫の申しわけ、――余談は、さて置き、萱野さんとは、それっきりなの? ああ、どのようなロマンスにも、神を恐れぬ低劣の結末が、宿命的に要求される。悪かしこい読者は、はじめ五、六行読んで、そっと、結末の一行を覗《のぞ》き読みして、ああ、まずいまずいと大あくび。よろしい、それでは一つ、しんじつ未曾有《みぞう》、雲散霧消の結末つくって、おまえのくさった腹綿を煮えくりかえさせてあげるから。
そうして、それから、――私たちは諦《あきら》めなかった。帝国ホテルの黄色い真昼、卓をへだてて立ちあがり、濁りなき眼で、つくづく相手の瞳を見合った。強くなれ、なれ。烈風、衣服はおろか、骨も千切れよ、と私たち二人の身のまわりを吹き荒《すさ》ぶ思い、見ゆるは、おたがいの青いマスク、ほかは万丈の黄塵に呑まれて一物もなし。この暴風に抗して、よろめきよろめき、卓を押しのけ、手を握り、腕を掴み、胴を抱いた。抱き合った。二十世紀の旗手どのは、まず、行為をさきにする。健全の思念は、そのあとから、ぞろぞろついて来て呉れる。尼になるお光よりは、お染を、お七を、お舟を愛する。まず、試みよ。声の大なる言葉のほうが、「真理」に化す。ばか、と言われた時には、その二倍、三倍の大声で、ばか、と言い返せよ。論より証拠、私たちの結婚を妨げる何物もなかった。
「これが、おまえとの結婚ロマンス。すこし色艶つけて書いてみたが、もし不服あったら、その個所だけ特別に訂正してあげてもいい。」
かの白衣の妻が答えた。
「これは、私ではございませぬ。」にこりともせず、きっぱり頭を横に振った。「こんなひと、いないわ。こんな、ありもしない影武者つかって、なんとかして、ごまかそうとしているのね。どう
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