場がございません。私は、荒んだ遊びを覚えました。そうして、金につまった。いまも、ふと、蚊帳の中の蚊を追い、わびしさ、ふるさとの吹雪と同じくらいに猛烈、数十丈の深さの古井戸に、ひとり墜落、呼べども叫べども、誰の耳にもとどかぬ焦慮、青苔ぬらぬら、聞ゆるはわが木霊《こだま》のみ、うつろの笑い、手がかりなきかと、なま爪はげて血だるまの努力、かかる悲惨の孤独地獄、お金がほしくてならないのです。ワンと言えなら、ワン、と言います。どんなにも面白く書きますから、一枚五円の割でお金下さい。五円、もとより、いちどだけ。このつぎには、五十銭でも五銭でも、お言葉にしたがいますゆえ、何卒《なにとぞ》、いちど、たのみます。五円の稿料いただいても、けっしてご損おかけせぬ態《てい》の自信ございます。拙稿きっと、支払ったお金の額だけ働いて呉れることと存じます。四日、深夜。太宰治。」

「拝復。四日深夜附|貴翰《きかん》拝誦《はいしょう》。稿料の件は御希望には副《そ》えませんが原稿は直ちに御|執《と》りかかり下さる様お願い申します。普通稿料一円です。先ずは御返事まで。匆々《そうそう》。『秘中の秘』編輯部。」

「お葉書拝読。四日深夜、を、ことさらに引用して、少し意地がわるい。全文のかげにて、ぷんぷんお怒りの御様子。私、おのれ一個のプライドゆえに五円をお願いしたわけではなかったのです。わが身ひとつのための貪慾に非ず、名知らぬ寒しき人に投げ与えむため、または、かのよき人よろこばせむための金銭の必要。けれども、いまは、詮なし。急に小声で、――それでは、書かせていただきます。太宰治。」

     七唱 わが日わが夢
          ――東京帝国大学内部、秘中の秘。――

(内容三十枚。全文|省略《カット》。)

     八唱 憤怒《ふんぬ》は愛慾の至高の形貌《けいぼう》にして、云々

「ちょっと旅行していました留守に原稿やら、度々の来信に接して、失礼しました。が、原稿は相当ひどい原稿ですね。あれでは幾らひいき目に見ても使えません。書き直して貰っても駄目かと思います。貴兄にとってはあれが力作かも知れませんが、当方ではあれでは迷惑ですし、あれで原稿料を要求されても困ると思います。いずれ、貴兄に機会があればお詫びするとして取敢《とりあ》えず原稿を御返却いたします。匆々。『秘中の秘』編輯部。」

 月のない闇黒《あんこく》の一夜、湖心の波、ひたひたと舟の横腹を舐《な》めて、深さ、さあ五百ひろはねえずらよ、とかこの子の無心の答えに打たれ、われと、それから女、凝然《ぎょうぜん》の恐怖、地獄の底の細き呼び声さえ、聞えて来るような心地、死ぬることさえ忘却し果てた、あの夜の寒い北風が、この一葉のハガキの隅からひょうひょう吹きすさびて、これだから家へかえりたくないのだ、三界に家なき荒涼の心もてあまして、ふらふら外出、電車の線路ふみ越えて、野原を行き、田圃を行き、やがて、私のまだ見ぬ美しき町へ行きついた。
 行くところなき思いの夜は、三十八度の体温を、アスピリンにて三十七度二、三分までさげて、停車場へ行き、三、四十銭の切符を買い、どこか知らぬ名の町まで、ふらと出かけて、そうして、そこの薄暗き盛り場のろのろ歩いて、路のかたわら、唐突の一本の松の枝ぶり立ちどまって見あげなどして、それから、ふところの本を売って、活動写真館へはいる。入口の風鈴の音わすれ難く、小用はたしながら、窓外の縁日、カアバイド燈のまわりの浴衣《ゆかた》着たる人の群ながめて、ああ、みんな生きている、と思って涙が出て、けれども、「泣かされました」など、つまらぬことだ、市民は、その生活の最頂点の感激を表現するのに、涙にかきくれたる様を告白して、人もおのれも深く首肯《うなず》き、おお、お、かなしかろ、と底の底まで、割り切れたる態にて落ちついているが、それでは、私は、どうする。一日一ぱい、人に知られず、くやし泣きに泣いてばかりいる、この私は、どうする。その日も、私は、市川の駅へふらと下車して、兄いもうと、という活動写真を見もてゆくにしたがい、そろそろ自身|狼狽《ろうばい》、歯くいしばっても歔欷《きょき》の声、そのうちに大声出そうで、出そうで、小屋からまろび出て、思いのたけ泣いて泣いて泣いてから考えた。弱い、踏みにじられたる、いまさら恨《うら》み言えた義理じゃない人の忍びに忍んで、こらえにこらえて、足げにされたる塵芥、腐った女の、いまわのきわの一すじの、神への抗議、おもんの憤怒が、私を泣かせた、ここを忘れてはならない、人の子、その生涯に、三たび、まことに憤怒することあるべし、とモオゼの呟《つぶや》き。
 どのような人でも、生きて在る限りは、立派に尊敬、要求すべきである。生あるもの、すべて世の中になくてかなわぬ重要の歯車、人を非難し
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