てきまりのわるくなるほど、藝術といふ言葉を連發するのであつた。つねに傑作を夢みつつ、勉強を怠つてゐた。さうしてふたりとも、よくない成績で學校を卒業した。葉藏は、ほとんど繪筆を投げ捨てた。繪畫はポスタアでしかないものだ、と言つては、飛騨をしよげさせた。すべての藝術は社會の經濟機構から放たれた屁である。生活力の一形式にすぎない。どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言つて飛騨をけむに卷くのであつた。飛騨は、むかしに變らず葉藏を好いてゐたし、葉藏のちかごろの思想にも、ぼんやりした畏敬を感じてゐたが、しかし飛騨にとつて、傑作のときめきが、何にもまして大きかつたのである。いまに、いまに、と考へながら、ただそはそはと粘土をいぢくつてゐた。つまり、この二人は藝術家であるよりは、藝術品である。いや、それだからこそ、僕もかうしてやすやすと敍述できたのであらう。ほんとの市場の藝術家をお目にかけたら、諸君は、三行讀まぬうちにげろを吐くだらう。それは保證する。ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ。
 飛騨もまた葉藏の顏を見れなかつた。できるだけ器用に忍びあしを使ひ、葉藏
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