つたら、私、言はなければよかつた。」
「い號室だ。」小菅はそつと頭をもたげた。「窓から石垣の見えるのは、あの部屋よりほかにないよ。い號室だ。君、少女のゐる部屋だよ。可愛さうに。」
「お騷ぎなさらず、おやすみなさいましよ。嘘なんですよ。つくり話なんですよ。」
 葉藏は別なことを考へてゐた。園の幽靈を思つてゐたのである。美しい姿を胸に畫いてゐた。葉藏は、しばしばこのやうにあつさりしてゐる。彼等にとつて神といふ言葉は、間の拔けた人物に與へられる揶揄と好意のまじつたなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神へ接近してゐるからかも知れぬ。こんな工合ひに輕々しく所謂「神の問題」にふれるなら、きつと諸君は、淺薄とか安易とかいふ言葉でもつてきびしい非難をするであらう。ああ、許し給へ。どんなまづしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがつてゐるものだ。されば、言はう。彼こそ神に似てゐる。寵愛の鳥、梟を黄昏の空に飛ばしてこつそり笑つて眺めてゐる智慧の女神のミネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に。

 翌る日、朝から療養院がざわめいてゐた。雪が降つてゐたのである。療養院
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