。あわてて眼を伏せた。
「兄貴は、まだあれでいいのだ。親爺が。」
言ひかけて口を噤んだ。葉藏はおとなしくしてゐる。僕の身代りになつて、妥協してゐるのである。
眞野は立ちあがつて、病室の隅の戸棚へ編物の道具をとりに行つた。もとのやうに、また葉藏の枕元の椅子に坐り、編物をはじめながら、眞野もまた考へてゐた。思想でもない、戀愛でもない、それより一歩てまへの原因を考へてゐた。
僕はもう何も言ふまい。言へば言ふほど、僕はなんにも言つてゐない。ほんたうに大切なことがらには、僕はまだちつとも觸れてゐないやうな氣がする。それは當前であらう。たくさんのことを言ひ落してゐる。それも當前であらう。作家にはその作品の價値がわからぬといふのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の效果を期待した僕は馬鹿であつた。ことにその效果を口に出してなど言ふべきでなかつた。口に出して言つたとたんに、また別のまるつきり違つた效果が生れる。その效果を凡そかうであらうと推察したとたんに、また新しい效果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及してばかりゐなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれと
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