《まち》。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎を、榮ある書きだしの一行にまつりあげたかつたからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまつたとて、僕は心弱くそれを抹殺する氣はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕のけふまでの生活を消すことだ。

「思想だよ、君、マルキシズムだよ。」
 この言葉は間が拔けて、よい。小菅がそれを言つたのである。したり顏にさう言つて、ミルクの茶碗を持ち直した。
 四方の板張りの壁には、白いペンキが塗られ、東側の壁には、院長の銅貨大の勳章を胸に三つ附けた肖像畫が高く掛けられて、十脚ほどの細長いテエブルがそのしたにひつそり並んでゐた。食堂は、がらんとしてゐた。飛騨と小菅は、東南の隅のテエブルに坐り、食事をとつてゐた。
「ずゐぶん、はげしくやつてゐたよ。」小菅は聲をひくめて語りつづけた。「弱いからだで、あんなに走りまはつてゐたのでは、死にたくもなるよ。」
「行動隊のキヤツプだらう。知つてゐる。」飛騨はパンをもぐもぐ噛みかへしつつ口をはさんだ。飛騨は博識ぶつたのではない。左翼の用語ぐらゐ、そのころの青年なら誰でも知つ
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