まつた。むりにもきめる。なにも言ふな。
 兄は、みんなに輕く挨拶した。それから飛騨へなにか耳打ちした。飛騨はうなづいて、小菅と眞野へ目くばせした。
 三人が病室から出るのを待つて、兄は言ひだした。
「電氣がくらいな。」
「うん。この病院ぢや明るい電氣をつけさせないのだ。坐らない?」
 葉藏がさきにソフアへ坐つて、さう言つた。
「ああ。」兄は坐らずに、くらい電球を氣がかりらしくちよいちよいふり仰ぎつつ、狹い病室のなかをあちこちと歩いた。「どうやら、こつちのはうだけは、片づいた。」
「ありがたう。」葉藏はそれを口のなかで言つて、こころもち頭をさげた。
「私はなんとも思つてゐないよ。だが、これから家へ歸るとまたうるさいのだ。」けふは袴をはいてゐなかつた。黒い羽織には、なぜか羽織紐がついてなかつた。「私も、できるだけのことはするが、お前からも親爺へよい工合ひに手紙を出したはうがいい。お前たちは、のんきさうだが、しかし、めんだうな事件だよ。」
 葉藏は返事をしなかつた。ソフアにちらばつてゐるトランプの札をいちまい手にとつて見つめてゐた。
「出したくないなら、出さなくていい。あさつて、警察へ行くんだ。警察でも、いままで、わざわざ取調べをのばして呉れてゐたのだ。けふは私と飛騨とが證人として取調べられた。ふだんのお前の素行をたづねられたから、おとなしいはうでしたと答へた。思想上になにか不審はなかつたか、と聞かれて、絶對にありません。」
 兄は歩きまはるのをやめて、葉藏のまへの火鉢に立ちはだかり、おほきい兩手を炭火のうへにかざした。葉藏はその手のこまかくふるへてゐるのをぼんやり見てゐた。
「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言つて置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたさうだ。私の答辯と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言へばいい。」
 葉藏には兄の言葉の裏が判つてゐた。しかし、そしらぬふりをしてゐた。
「要らないことは言はなくていい。聞かれたことだけをはつきり答へるのだ。」
「起訴されるのかな。」葉藏はトランプの札の縁を右手のひとさし指で撫でまはしながらひくく呟いた。
「判らん。それは判らん。」語調をつよめてさう言つた。「どうせ四五日は警察へとめられると思ふから、その用意をして行け。あさつての朝、私はここへ迎へに來る。一緒に警察へ行くんだ。」
 兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく默つた。雪解けの雫のおとが浪の響にまじつて聞えた。
「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと言ひだした。それから、なにげなささうな口調ですらすら言ひつづけた。「お前も、ずつと將來のことを考へて見ないといけないよ。家にだつて、さうさう金があるわけでないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたつてなんにもならぬだらうが、うちの銀行もいま危くなつてゐるし、たいへんな騷ぎだよ。お前は笑ふかも知れないが、藝術家でもなんでも、だいいちばんに生活のことを考へなければいけないと思ふな。まあ、これから生れ變つたつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう歸らう。飛騨も小菅も、私の旅籠へ泊めるやうにしたはうがいい。ここで毎晩さわいでゐては、まづいことがある。」

「僕の友だちはみんなよいだらう?」
 葉藏は、わざと眞野のはうへ脊をむけて寢てゐた。その夜から、眞野がもとのやうに、ソフアのベツドへ寢ることになつたのである。
「ええ。――小菅さんとおつしやるかた、」しづかに寢がへりを打つた。「面白いかたですわねえ。」
「ああ。あれで、まだ若いのだよ。僕と三つちがふのだから、二十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり眞似してゐやがる。飛騨はえらいのだ。もうひとりまへだよ。しつかりしてゐる。」しばらく間を置いて、小聲で附け加へた。「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命で僕をいたはるのだ。僕たちにむりして調子を合せてゐるのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ。」
 眞野は答へなかつた。
「あの女のことを話してあげようか。」
 やはり眞野へ脊をむけたまま、つとめてのろのろとさう言つた。なにか氣まづい思ひをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしやらにその氣まづさを徹底させてしまはなければかなはぬ悲しい習性を葉藏は持つてゐた。
「くだらん話なんだよ。」眞野がなんとも言はぬさきから葉藏は語りはじめた。「もう誰かから聞いただらう。園といふのだ。銀座のバアにつとめてゐたのさ。ほんたうに、僕はそこのバアへ三度、いや四度しか行かなかつたよ。飛騨も小菅もこの女のことだけは知らなかつたのだからな。僕も教へなかつたし。」よさうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互ひにまつたくち
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