つれあひのひとの弱さが齒がゆかつたし、それへつけこむ葉藏の兄も兄だ、と相變らずの世間の話として聞いてゐたのである。
飛騨はぶらぶら歩きだし、葉藏の枕元のはうへやつて來た。硝子戸に鼻先をくつつけるやうにして、曇天のしたの海を眺めた。
「そのひとがえらいのさ。兄さんがやりてだからぢやないよ。そんなことはないと思ふなあ。えらいんだよ。人間のあきらめの心が生んだ美しさだ。けさ火葬したのだが、骨壺を抱いてひとりで歸つたさうだ。汽車に乘つてる姿が眼にちらつくよ。」
小菅は、やつと了解した。すぐ、ひくい溜息をもらすのだ。「美談だなあ。」
「美談だらう? いい話だらう?」飛騨は、くるつと小菅のはうへ顏をねぢむけた。氣嫌を直したのである。「僕は、こんな話に接すると、生きてゐるよろこびを感ずるのさ。」
思ひ切つて、僕は顏を出す。さうでもしないと、僕はこのうへ書きつづけることができぬ。この小説は混亂だらけだ。僕自身がよろめいてゐる。葉藏をもてあまし、小菅をもてあまし、飛騨をもてあました。彼等は、僕の稚拙な筆をもどかしがり、勝手に飛翔する。僕は彼等の泥靴にとりすがつて、待て待てとわめく。ここらで陣容を立て直さぬことには、だいいち僕がたまらない。
どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覺悟してゐた。書いてゐるうちに、なにかひとつぐらゐ、むきなものが出るだらうと樂觀してゐた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらゐ、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらゐなにかひとつぐらゐとそればかりを、あちこちひつくりかへして搜した。そのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばつたのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。なんといふ馬鹿な。この言葉に最大級のわざはひあれ。うつとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらゐのちがつた意味をもつておのれの胸へはねかへつて來るやうでは、ペンをへし折つて捨てなければならぬ。葉藏にせよ、飛騨にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく氣取つて見せなくてよい。どうせおさとは知れてゐるのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想。
その夜、だいぶ更けてから、葉藏の兄が病室を訪れた。葉藏は飛騨と小菅と三人で、トランプをして遊んでゐた。きのふ兄がここへはじめて來たときにも、彼等はトランプをしてゐた筈である。けれども彼等はいちにちいつぱいトランプをいぢくつてばかりゐるわけでない。むしろ彼等は、トランプをいやがつてゐる程なのだ。よほど退屈したときでなければ持ち出さぬ。それも、おのれの個性を充分に發揮できないやうなゲエムはきつと避ける。手品を好む。さまざまなトランプの手品を自分で工夫してやつて見せる。そしてわざとその種を見やぶらせてやる。笑ふ。それからまだある。トランプの札をいちまい伏せて、さあ、これはなんだ、とひとりが言ふ。スペエドの女王。クラブの騎士。それぞれがおもひおもひに趣向こらした出鱈目を述べる。札をひらく。當つたためしのないのだが、それでもいつかはぴつたり當るだらう、と彼等は考へる。あたつたら、どんなに愉快だらう。つまり彼等は、長い勝負がいやなのだ。いちかばち。ひらめく勝負が好きなのだ。だから、トランプを持ち出しても、十分とそれを手にしてゐない。一日に十分間。そのみじかい時間に兄が二度も來合せた。
兄は病室へはひつて來て、ちよつと眉をひそめた。いつものんきにトランプだ、と考へちがひしたのである。このやうな不幸は人生にままある。葉藏は美術學校時代にも、これと同じやうな不幸を感じたことがある。いつかのフランス語の時間に、彼は三度ほどあくびをして、その瞬間瞬間に教授と視線が合つた。たしかにたつた三度であつた。日本有數のフランス語學者であるその老教授は、三度目に、たまりかねたやうにして、大聲で言つた。「君は、僕の時間にはあくびばかりしてゐる。一時間に百囘あくびをする。」教授には、そのあくびの多すぎる囘數を事實かぞへてみたやうな氣がしてゐるらしかつた。
ああ、無念無想の結果を見よ。僕は、とめどもなくだらだらと書いてゐる。更に陣容を立て直さなければいけない。無心に書く境地など、僕にはとても企て及ばぬ。いつたいこれは、どんな小説になるのだらう。はじめから讀み返してみよう。
僕は、海濱の療養院を書いてゐる。この邊は、なかなか景色がよいらしい。それに療養院のなかのひとたちも、すべて惡人でない。ことに三人の青年は、ああ、これは僕たちの英雄だ。これだな。むづかしい理窟はくそにもならぬ。僕はこの三人を、主張してゐるだけだ。よし、それにき
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