太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)恥《はじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夫婦|喧嘩《げんか》、
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 菊子さん。恥《はじ》をかいちゃったわよ。ひどい恥をかきました。顔から火が出る、などの形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、と言っても未だ足りない。サムエル後書にありました。「タマル、灰を其《そ》の首《こうべ》に蒙《かむ》り、着たる振袖《ふりそで》を裂き、手を首《こうべ》にのせて、呼《よば》わりつつ去《さり》ゆけり」可愛そうな妹タマル。わかい女は、恥ずかしくてどうにもならなくなった時には、本当に頭から灰でもかぶって泣いてみたい気持になるわねえ。タマルの気持がわかります。
 菊子さん。やっぱり、あなたのおっしゃったとおりだったわ。小説家なんて、人の屑《くず》よ。いいえ、鬼です。ひどいんです。私は、大恥かいちゃった。菊子さん。私は今まであなたに秘密にしていたけれど、小説家の戸田さんに、こっそり手紙を出していたのよ。そうしてとうとう一度お目にかかって大恥かいてしまいました。つまらない。
 はじめから、ぜんぶお話申しましょう。九月のはじめ、私は戸田さんへ、こんな手紙を差し上げました。たいへん気取って書いたのです。
「ごめん下さい。非常識と知りつつ、お手紙をしたためます。おそらく貴下の小説には、女の読者がひとりも無かった事と存じます。女は、広告のさかんな本ばかりを読むのです。女には、自分の好みがありません。人が読むから、私も読もうという虚栄みたいなもので読んでいるのです。物知り振っている人を、矢鱈《やたら》に尊敬いたします。つまらぬ理窟《りくつ》を買いかぶります。貴下は、失礼ながら、理窟をちっとも知らない。学問も無いようです。貴下の小説を私は、去年の夏から読みはじめて、ほとんど全部を読んでしまったつもりでございます。それで、貴下にお逢いする迄《まで》もなく、貴下の身辺の事情、容貌、風采《ふうさい》、ことごとくを存じて居ります。貴下に女の読者がひとりも無いのは、確定的の事だと思いました。貴下は御自分の貧寒の事や、吝嗇《りんしょく》の事や、さもしい夫婦|喧嘩《げんか》、下品な御病気、それから容貌のずいぶん醜い事や、身なりの汚い事、蛸《たこ》の脚なんかを齧《かじ》って焼酎《しょうちゅう》を飲んで
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