あって、彼は国々の凡ての権威と栄華とをもっているのだそうであるが、とんでも無い事だ。私は、三鷹の薄汚いおでんやに於いても軽蔑せられ、権威どころか、おでんやの女中さんに叱られてまごまごしている。私は、サタンほどの大物でなかった。
ほっと安堵《あんど》の吐息をもらした途端に、またもや別の変な不安が湧いて出た。なぜ伊村君は、私をサタンだなんて言ったのだろう。まさか私がたいへん善人であるという事を言おうとして、「あなたはサタンだ」なんて言い出したわけではなかろう。悪い人だという事を言おうとしたのに違いない。けれども私は、絶対にサタンでない。この世の権威も栄華も持っていない。伊村君は言い違いしたのだ。かれは落第生で、不勉強家であるから、サタンという言葉の真意を知らず、ただ、わるい人という意味でその言葉を使ったのに違いない。私は、わるい人であろうか、それを、きっぱり否定できるほど私には自信が無かった。サタンでは無くとも、その手下に悪鬼というものもあった筈だ。伊村君は、私を、その召使の悪鬼だと言おうとして、ものを知らぬ悲しさ、サタンだと言ってしまったのかも知れない。聖書辞典に拠《よ》ると、「悪鬼とは、サタンに追従《ついしょう》して共に堕落《おち》し霊物《もの》にして、人を怨《うら》み之を汚さんとする心つよく、其数多し」とある。甚《はなは》だ、いやらしいものである。わが名はレギオン、我ら多きが故なりなどと嘯《うそぶ》いて、キリストに叱られ、あわてて二千匹の豚の群に乗りうつり転げる如く遁走《とんそう》し、崖から落ちて海に溺れたのも、こいつらである。だらしの無い奴である。どうも似ている。似ているようだ。サタンにお追従を言うところなぞ、そっくりじゃないか。私の不安は極点にまで達した。私は自分の三十三年の生涯を、こまかに調べた。残念ながら、あるのだ。サタンにへつらっていた一時期が、あるのだ。それに思い当った時、私はいたたまらず、或る先輩のお宅へ駈けつけた。
「へんな事を言うようですけど、僕が五、六年前に、あなたへ借金申込みの手紙を差し上げた事があった筈ですが、あの手紙いまでもお持ちでしょうか。」
先輩は即座に答えた。
「持っている。」私の顔を、まっすぐに見て、笑った。「そろそろ、あんな手紙が気になって来たらしいね。僕は、君がお金持になったら、あの手紙を君のところへ持って行って恐喝《きょうかつ》しようと思っていた。ひどい手紙だぜ。ウソばっかり書いていた。」
「知っていますよ。そのウソが、どの程度に巧妙なウソか、それを調べてみたくなったのです。ちょっと見せて下さい。ちょっとでいいんです。大丈夫。鬼の腕みたいに持ち逃げしません。ちょっと見たら、すぐ返しますから。」
先輩は笑いながら手文庫を持ち出し、しばらく捜して一通、私に手渡した。
「恐喝は冗談だが。これからは気を附け給え。」
「わかっています。」
以下は、その手紙の全文である。
――○○兄。生涯にいちどのおねがいがございます。八方手をつくしたのですが、よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして、やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい。今月末まで必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたりから二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません。「太宰がちょっとした失敗をして、困っているから、」と申して借りて下さい。三月末には必ずお返しできます。お金、送るなり、又、兄御自身お遊びがてら御持参くだされたら、よろこび、これに過ぎたるは、ございません。図々《ずうずう》しい、わがままだ、勝手だ、なまいきだ、だらしない、いかなる叱正《しっせい》をも甘受いたす覚悟です。只今、仕事をして居ります。この仕事ができれば、お金がはいります。一日早ければ一日早いだけ助かります。二十日に要るのですけれど。おそくだと、私のほうでも都合つくのですが。万事御了察のうえ、御願い申しあげます。何事も申し上げる力がございません。委細は拝眉《はいび》の日に。三月十九日。治拝。」
意外な事には、此の手紙のところどころに、先輩の朱筆の評が書き込まれていた。括弧《かっこ》の中が、その先輩の評である。
――○○兄。生涯にいちどの(人間のいかなる行為も、生涯にいちどきりのもの也)おねがいがございます。八方手をつくしたのですが(まず、三四人にも出したか)よい方法がなく、五六回、巻紙を出したり、ひっこめたりして(この辺は真実ならん)やっと書きます。この辺の気持ちお察し下さい(察しはつくが、すこし変である)今月末までに必ず必ずお返しできるゆえ、××家あたり(あたりとは、おかしき言葉なり)から二十円、やむを得ずば十円、借りて下さるまいか? 兄には、決してごめいわくをおかけしません(この辺は真実ならん
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