、うますぎる。サタンと天使が同族であるというような事は、危険思想である。私には、サタンがそんな可愛らしい河童《かっぱ》みたいなものだとは、どうしても考えられない。
 サタンは、神と戦っても、なかなか負けぬくらいの剛猛な大魔王である。私がサタンだなんて、伊村君も馬鹿な事を言ったものである。けれども伊村君からそう言われて、それから一箇月間くらいは、やっぱり何だか気になって、私はサタンに就《つ》いての諸家の説を、いろいろ調べてみた。私が決してサタンでないという反証をはっきり掴《つか》んで置きたかったのである。
 サタンは普通、悪魔と訳されているが、ヘブライ語のサーターン、また、アラミ語のサーターン、サーターナーから起っているのだそうである。私は、ヘブライ語、アラミ語はおろか、英語さえ満足に読めない程の不勉強家であるから、こんな学術的な事を言うのは甚《はなは》だてれくさいのであるが、ギリシャ語では、デイヤボロスというのだそうだ。サーターンの原意は、はっきりしないが、たぶん「密告者」「反抗者」らしいという事だ。デイヤボロスは、そのギリシャ訳というわけである。どうも、辞書を引いてたったいま知ったような事を、自分の知識みたいにして得々として語るというのは、心苦しい事である。いやになる。けれども私は、自分がサタンでないという事を実証する為には、いやでも、もう少し言わなければならぬ。要するにサタンという言葉の最初の意味は、神と人との間に水を差し興覚《きょうざ》めさせて両者を離間させる者、というところにあったらしい。もっとも旧約の時代に於《お》いては、サタンは神と対立する強い力としては現われていない。旧約に於いては、サタンは神の一部分でさえあったのである。或る外国の神学者は、旧約以降のサタン思想の進展に就いて、次のように報告している。すなわち、「ユダヤ人は、長くペルシャに住んでいた間に、新らしい宗教組織を知るようになった。ペルシャの人たちは、其名をザラツストラ、或《ある》いはゾロアスターという偉大な教祖の説を信じていた。ザラツストラは、一切の人生を善と悪との間に起る不断の闘争であると考えた。これはユダヤ人にとって全く新しい思想であった。それまで彼等は、エホバと呼ばれた万物の唯一の主だけを認めていた。物事が悪く行ったり戦いに敗れたり病気にかかったりすると、彼等はきまって、こういう不幸は何もかも自分たちの民族の信仰の不足のせいであると思い込んでいたのだ。ただ、エホバのみを恐れた。罪が悪霊の単独の誘惑の結果であるという考えは、嘗《かつ》て彼等に起った事が無かったのである。エデンの園の蛇でさえ彼等の眼には、勝手に神の命令にそむいたアダムやエバより悪くはなかったのだ。けれども、ザラツストラの教義の影響を受けて、ユダヤ人も今はエホバに依って完成せられた一切の善を、くつがえそうとしているもう一つの霊の存在を信じ始めた。
 彼等はそれをエホバの敵、すなわち、サタンと名づけた。」というのであるが、簡明の説である。そろそろサタンは、剛猛の霊として登場の身仕度をはじめた。そうして新約の時代に到って、サタンは堂々、神と対立し、縦横無尽に荒れ狂うのである。サタンは新約聖書の各頁に於いて、次のような、種々さまざまの名前で呼ばれている。二つ名のある、というのが日本の歌舞伎では悪党を形容する言葉になっているようだが、サタンは、二つや三つどころではない。デイアボロス、ベリアル、ベルゼブル、悪鬼の首《かしら》、この世の君、この世の神、訴うるもの、試むる者、悪しき者、人殺、虚偽の父、亡す者、敵、大なる竜、古き蛇、等である。以下は日本に於ける唯一の信ずべき神学者、塚本虎二氏の説であるが、「名称に依っても、ほぼ推察できるように、新約のサタンは或る意味に於いて神と対立している。即ち一つの王国をもって之《これ》を支配し、神と同じく召使たちをもっている。悪鬼どもが彼の手下である。その国が何処《どこ》にあるかは明瞭でない。天と地との中間(エペソ二・二)のようでもあり、天の処《ところ》(同六・十二)という場所か、または、地の底(黙示九・十一、二〇・一以下)らしくもある。とにかく彼は此の地上を支配し、出来る限りの悪を人に加えようとしている。彼は人を支配し、人は生れながらにして彼の権力の下にある。この故に『この世の君』であり、『この世の神』であって、彼は国々の凡《すべ》ての権威と栄華とをもっている。」
 ここに於いて、かの落第生伊村君の説は、完膚《かんぷ》無《な》き迄《まで》に論破せられたわけである。伊村説は、徹頭徹尾|誤謬《ごびゅう》であったという事が証明せられた。ウソであったのである。私は、サタンでなかったのである。へんな言いかたであるが、私は、サタンほど偉くはない。この世の君であり、この世の神で
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