誰も知らぬ
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)笑《おか》しな

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東北|訛《なまり》が在りましたので
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 誰も知ってはいないのですが、――と四十一歳の安井夫人は少し笑って物語る。――可笑《おか》しなことがございました。私が二十三歳の春のことでありますから、もう、かれこれ二十年も昔の話でございます。大震災のちょっと前のことでございました。あの頃も、今も、牛込のこの辺は、あまり変って居りませぬ。おもて通りが少し広くなって、私の家の庭も半分ほど削り取られて道路にされてしまいました。池があったのですが、それも潰されてしまって、変ったと言えば、まあそれくらいのもので、今でも、やはり二階の縁側からは、真直《まっすぐ》に富士が見えますし、兵隊さんの喇叭《らっぱ》も朝夕聞えてまいります。父が長崎の県知事をしていたときに、招かれて、こちらの区長に就任したのでございますが、それは、ちょうど私が十二の夏のことで、母も、その頃は存命中でありました。父は、東京の、この牛込の生れで、祖父は陸中盛岡の人であります。祖父は、若
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