夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを熟蝦夷《ニギエゾ》、次を麁蝦夷《アラエゾ》、遠きを都加留《ツガル》と名くと。其他の蝦夷は、おのづから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島《ワタリジマ》に至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽の陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。
「青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といひ、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸《シチノヘ》および斗南《トナミ》の五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後|二戸《ニノヘ》郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。
「津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著はる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。
「津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦ひこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用ふるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣はし、秀吉の陣を犒ひ、三年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従ひ、西上して大垣に戦ひ、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。
「津軽平野」陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境の矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来る平《ヒラ》川及び東より来る浅瀬石《アサセイシ》川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随つて幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出づ。
[#地から2字上げ](以上、日本百科大辞典に拠る)
 津軽の歴史は、あまり人に知られてゐない。陸奥も青森県も津軽と同じものだと思つてゐる人さへあるやうである。無理もない事で、私たちの学校で習つた日本歴史の教科書には、津軽といふ名詞が、たつた一箇所に、ちらと出てゐるだけであつた。すなはち、阿倍比羅夫の蝦夷討伐のところに、「幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」といふやうな文章があつて、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それつきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だつたやうだし、それから約二百年後の日本武尊の蝦夷御平定も北は日高見国までのやうで、日高見国といふのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらゐ経つて大化改新があり、阿倍比羅夫の蝦夷征伐に依つて、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐるだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になつて、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城《いざはじやう》(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやつて来なかつたやうである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担してゐたとかいふ事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といへば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教へられてゐるばかりである。この前九年後三年の役だつて、舞台は今の岩手県・秋田県であつて、安倍氏清原氏などの所謂|熟蝦夷《ニギエゾ》が活躍するばかりで、都加留《ツガル》などといふ奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されてゐなかつた。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依つて奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちよつと立つて裾をはたいて坐り直したといふだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如ォ積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言はれても、仕方の無いやうなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだといふのは、まことに心細い。いつたい、その間、津軽では何をしてゐたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせてゐただけの事なのか。いやいやさうではないらしい。ご当人に言はせると、「かう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」といふやうなところらしい。
「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥《むつ》州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であつた。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となつた。その『みち』の国の名を、古い地方音によつて『むつ』と発音し、『むつ』の国となつた。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であつたから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。
 次に出羽は『いでは』で、出端《いではし》の義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然と越《こし》の国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥《みちのく》と同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端《いではし》と言つたのであらう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であつたことを、その名に示してゐる。」といふのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされてゐたのだから、その極北の津軽半島などに到つては熊や猿の住む土地くらゐに考へられてゐたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、「頼朝の奥羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能はず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従ふべきことを命ずるのやむを得ざる程であつた。随つて最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があつたと見えて、土豪|安東《あんどう》氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた。」といふやうな事を記してゐる。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかつて来る。その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしてゐただけの事かも知れない。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残つてしよんぼりしてゐるアイヌとは、根本的にたちが違つてゐたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめてゐる程であるとも言はれ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随つて石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達してゐるのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になつてしまつた。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のやうに論断してゐるやうである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡つて来朝した記載がある。そのうち特に著しいのヘ聖武天皇の天平十八年(一四〇六年)及び光仁天皇の宝亀二年(一四三一年)の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行はれたのは想像し難くない。秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀つた神社があつたらしいのは、いづれも直接の交通が大陸とこの地方との間に行はれたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時が満洲に渡つて見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学上の資料と併せ考へて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の交通に依つて得たる文華の程度が、不充分なる中央に残つた史料から推定する如く、低級ではなかつたことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、義家などの武将が、これを緩服するに頗る困難であつたのも、敵手が単に無智なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかつたと考へて、はじめて氷解するのである。」
 さうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷《えみし》、東人《あづまびと》、毛人《けびと》などと名乗つたのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的なハイカラな情緒にあやかりたいといふ意味もあつたのではなからうかと考へてみるのも面白いではないか、といふやうな事も言ひ添へてゐる。かうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしてゐたわけでは無かつたやうでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういふものか、さつぱり出て来ない。わづかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。喜田博士の曰く、「安東氏は自ら安倍貞任の子|高星《たかぼし》の後と称し、その遠祖は長髄彦《ながすねひこ》の兄|安日《あび》なりと言つてゐる。長髄彦、神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となつたといふのである。いづれにしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であつたに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役の地だつたと伝へられてゐるのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂はゆる守護不入の地となつてゐたことを語つたものであらう。
 鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到つて、幕府の執権北条高時、将を遣はしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能はず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。」
 さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当つては、少し自信のなささうな口振りである。まつたく、津軽
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