の歴史は、はつきりしないらしい。ただ、この北端の国は、他国と戦ひ、負けた事が無いといふのは本当のやうだ。服従といふ観念に全く欠けてゐたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振舞はせてゐたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似てゐる。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言ひ合ひ格闘をはじめる。安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。津軽の人、竹内運平氏の青森県通史に拠れば、「この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となつてやがては元弘の変となり、建武の中興となつた。」とあるが、或いはその御大業の遠因の一つに数へられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つといふ事になつて、この安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言はなければならなくなる。いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから糠部《ぬかのぶ》と称する蝦夷地であつたが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢ひ頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争ひ、津軽に於いては安東氏のかはりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹んで奉還したといふのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、「津軽に於いては、安東氏没落し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となつた。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称してゐる。しかし一方では南部氏の分れであるといひ、或ひは藤原基衡の次男|秀栄《ひでしげ》の後だとも、或ひは安東氏の一族であるかの如くにも伝へ、諸説紛々適従するところを知らぬ。」と言つてゐる。また、竹内運平氏もその事に就いて次のやうに述べてゐる。「南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあつたのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、わが遠祖は藤原≠ナあり、中世に於いても近衛家の血統の加はれるものである、と主張する事等から起つて居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であつたから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思ふ。なほ、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めてゐるが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取つて居る可足記の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云ひ、近来出版になつた読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いやうに思ふ。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあつても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云へない。」と喜田博士同様、断乎たる結論は避けてゐる。それを簡明直截に疑はず規定してゐるのは、日本百科大辞典だけであつたから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。
以上くだくだしく述べて来たが、考へてみると、津軽といふのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当り、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」と書いてあるが、それだつて北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。さうして、その青森県の日本海寄りの半島たつた一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下つてせいぜい深浦あたり迄、さうして南は、まあ弘前迄といつていいだらう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがつた所謂文化的な気風も育成せられてゐるやうだから、これは除いて、さうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらゐに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかつたのも無理はないと思はれて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やつぱりまだ船が出さうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまつすぐに蟹田のN君の家へ帰つて来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道で津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があつて山中には路らしい路も無いやうな有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まづ仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居《じよゐ》といふ家族の居間にさがつて、改めて嫂に挨拶した。
「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。
私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思つてゐますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思つてゐますから、その折にはよろしくお願ひします、といふやうな葉書を嫂に差上げてゐたのである。
「一週間ほど前です。東海岸で、手間どつてしまひました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、嫂も知つてゐる筈だつた。
「さう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配してゐました。陽子や光《みつ》ちやんなどは、とても待つて、毎日交代に停車場へ出張してゐたのですよ。おしまひには、怒つて、もう来たつて知らない、と言つてゐた人もありました。」
陽子といふのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちよいちよい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやつて来てゐたのである。光ちやんといふのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝ひに来てゐる素直な子である。その二人の姪が、からみ合ひながら、えへへ、なんておどけた笑ひ方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。
「をかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑つた。
「ばか。これが、東京のはやりさ。」
嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。
「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言ふ。元気な人だつたが、でも、さすがに少し弱つて来てゐるやうにも見えた。
「どうしますか。」と嫂は私に向つて、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんなゐるんですけど。」
陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめてゐる様子である。
兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらゐ打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかつてゐない。
「お差支へなかつたら、二階へ行きませうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでゐるのも、いぢけてゐるみたいで、いやらしい事だと思つた。
「どちらだつて、かまひませんよ。」嫂は笑ひながら、「それぢや、二階へお膳を。」と光ちやんたちに言ひつけた。
私はジヤンパー姿のままで二階に上つて行つた。金襖の一ばんいい日本間《にほんま》で、兄たちは、ひつそりお酒を飲んでゐた。私はどたばたとはひり、
「修治です。はじめて。」と言つて、まづお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言つて、ちよつと首肯いたきりだつた。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言つていいかも知れない。私は慣れてゐるので平気でお膳について、光ちやんと嫂のお酌で、黙つてお酒を飲んでゐた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐つて、もうだいぶお顔が赤くなつてゐる。兄たちも、昔はお酒に強かつたやうだが、このごろは、めつきり弱くなつたやうで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互ひゆづり合つてゐる。外ヶ浜で荒つぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のやうで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。
「蟹は、どうしませう。あとで?」と嫂は小声で私に言つた。私は蟹田の蟹を少しお土産に持つて来たのだ。
「さあ。」蟹といふものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちよつと躊躇した。嫂も同じ気持だつたのかも知れない。
「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまひませんよ。持つて来なさい。ナプキンも一緒に。」
今夜は、長兄もお婿さんがゐるせゐか、機嫌がいいやうだ。
蟹が出た。
「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まつさきに蟹の甲羅をむいた。
私は、ほつとした。
「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気さうな笑顔で私に言つた。はつと思つた。無理もないとすぐに思ひ直して、
「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑ひながら答へたが、しよげてしまつて、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかつたかしら、と卑屈に気を使つて、次兄の顔色を伺つたが、次兄は知らん顔をしてゐるので、取りつく島も無かつた。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちやんに、こんどはビールをお酌させた。
金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、さうしてその原稿を売らなければ生きて行けないといふ悪い宿業を背負つてゐる男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、あちこちうろつき、さうして死ぬのかも知れない。
翌る日は、雨であつた。起きて二階の長兄の応接間へ行つてみたら、長兄はお婿さんに絵を見せてゐた。金屏風が二つあつて、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいつた閑雅な風景が画かれてゐる。私は落款を見た。が、読めなかつた。
「誰です。」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。
「スイアン。」と兄は答へた。
「スイアン。」まだわからなかつた。
「知らないのか。」兄は別に叱りもせず、おだやかにさう言つて、「百穂のお父さんです。」
「へえ?」百穂のお父さんもやつぱり画家だつたといふ事は聞いて知つてゐたが、そのお父さんが穂庵《すいあん》といふ人で、こんないい絵をかくとは知らなかつた。私だつて、絵はきらひではないし、いや、きらひどころか、かなり通《つう》のつもりでゐたのだが、穂庵を知らなかつたとは、大失態であつた。屏風をひとめ見て、おや? 穂庵、と軽く言つたなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかつたのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になつてしまつた、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、
「秋田には、偉い人がゐます。」とお婿さんに向つて低く言つた。
「津軽の綾足《あやたり》はどうでせう。」名誉恢復と、それから、お世辞のつもりもあつて、私は、おつかなびつくり出しやばつてみた。津軽の画家といへば、まあ、綾足くらゐのものらしいが、実はこれも、この前に金
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