上のピカピカ光る黒い靴。それからマント。父はすでに歿し、母は病身ゆゑ、少年の身のまはり一切は、やさしい嫂の心づくしでした。少年は、嫂に怜悧に甘えて、むりやりシヤツの襟を大きくしてもらつて、嫂が笑ふと本気に怒り、少年の美学が誰にも解せられぬことを涙が出るほど口惜しく思ふのでした。『瀟洒、典雅。』少年の美学の一切は、それに尽きてゐました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きてゐました。マントは、わざとボタンを掛けず、小さい肩から今にも滑り落ちるやうに、あやふく羽織つて、さうしてそれを小粋な業《わざ》だと信じてゐました。どこから、そんなことを覚えたのでせう。おしやれの本能といふものは、手本がなくても、おのづから発明するものかも知れません。ほとんど生れてはじめて都会らしい都会に足を踏みこむのでしたから、少年にとつては一世一代の凝つた身なりであつたわけです。興奮のあまり、その本州北端の一小都会に着いたとたんに少年の言葉つきまで一変してしまつてゐたほどでした。かねて少年雑誌で習ひ覚えてあつた東京弁を使ひました。けれども宿に落ちつき、その宿の女中たちの言葉を聞くと、ここもやつぱり
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