ければならぬ。文化に於いて、はたまた産業に於いて然り、かしこくも明治大帝の教育に関する大御心はまことに神速に奥州の津々浦々にまで浸透して、奥州人特有の聞きぐるしき鼻音の減退と標準語の進出とを促し、嘗ての原始的状態に沈淪した蒙昧な蛮族の居住地に教化の御光を与へ、而して、いまや見よ、開発また開拓、膏田沃野の刻一刻と増加することを。そして改良また改善、牧畜、林業、漁業の日に日に盛大におもむく事を。まして況んや、住民の分布薄疎にして、将来の発展の余裕、また大いにこの地にありといふに於いてをや。
 むく鳥、鴨、四十雀、雁などの渡り鳥の大群が、食を求めてこの地方をさまよひ歩くが如く、膨脹時代にあつた大和民族が各地方より北上してこの奥州に到り、蝦夷を征服しつつ、或ひは山に猟し、或ひは川に漁して、いろいろな富源の魅力にひきつけられ、あちらこちらと、さまよひ歩いた。かくして数代経過し、ここに人々は、思ひ思ひの地に定著して、或ひは秋田、荘内、津軽の平野に米を植ゑ、或ひは北奥の山地に殖林を試み、或ひは平原に馬を飼ひ、或ひは海辺の漁業に専心して以て今日に於ける隆盛なる産業の基礎を作つたのである。奥州六県、六百三十万の民はかくして先人の開発せし特徴ある産業をおろそかにせず、益々これが発達の途を講じ、渡り鳥は永遠にさまよへども、素朴なる東北の民は最早や動かず、米を作つて林檎を売り、鬱蒼たる美林につづく緑の大平原には毛並輝く見事な若駒を走らせ、出漁の船は躍る銀鱗を満載して港にはひるのである。」
 まことに有難い祝辞で、思はず駈け寄つてお礼の握手でもしたくなるくらゐのものだ。さて私はその翌日、N君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まづ問題は酒であつた。
「お酒は、どうします? リユツクサツクに、ビールの二、三本も入れて置きませうか?」と、奥さんに言はれて、私は、まつたく、冷汗三斗の思ひであつた。なぜ、酒飲みなどといふ不面目な種族の男に生れて来たか、と思つた。
「いや、いいです。無ければ無いで、また、それは、べつに。」などと、しどろもどろの不得要領なる事を言ひながらリユツクサツクを背負ひ、逃げるが如く家を出て、後からやつて来たN君に、
「いや、どうも。酒、と聞くとひやつとするよ。針の筵《むしろ》だ。」と実感をそのまま言つた。N君も同じ思ひと見えて、顔を赤くし、うふふと笑ひ、
「僕もね、ひとりぢや我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しづつ集めて置くつて言つてゐたから、今別にちよつと立寄らうぢやないか。」
 私は複雑な溜息をついて、
「みんなに苦労をかけるわい。」と言つた。
 はじめは蟹田から船でまつすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスといふ計画であつたのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といつていいくらゐの天候で、乗つて行く筈の定期船は欠航になつてしまつたので、予定をかへて、バスで出発する事にしたのである。バスは案外、空《す》いてゐて、二人とも楽に腰かける事が出来た。外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えて来て、このぶんならば定期船も出るのではなからうかと思はれた。とにかく、今別のMさんのお家へ立寄り、船が出るやうだつたら、お酒をもらつてすぐ今別の港から船に乗らうといふ事にした。往きも帰りも同じ陸路を通るのは、気がきかなくて、つまらない事のやうに思はれた。N君はバスの窓から、さまざまの風景を指差して説明してくれたが、もうそろそろ要塞地帯に近づいてゐるのだから、そのN君の親切な説明をここにいちいち書き記すのは慎しむべきであらう。とにかく、この辺には、昔の蝦夷の栖家《すみか》の面影は少しも見受けられず、お天気のよくなつて来たせゐか、どの村落も小綺麗に明るく見えた。寛政年間に出版せられた京の名医橘南谿の東遊記には、「天地《あめつち》ひらけしよりこのかた今の時ほど太平なる事はあらじ、西は鬼界屋玖の嶋より東は奥州の外ヶ浜まで号令の行届かざるもなし。往古は屋玖の島は屋玖国とて異国のやうに聞え、奥州も半ば蝦夷人の領地なりしにや、猶近き頃まで夷人の住所なりしと見えて南部、津軽辺の地名には変名多し。外ヶ浜通りの村の名にもタツピ、ホロヅキ、内マツペ、外マツペ、イマベツ、ウテツなどいふ所有り。是皆蝦夷詞なり。今にても、ウテツなどの辺は風俗もやや蝦夷に類して津軽の人も彼等はエゾ種といひて、いやしむるなり。余思ふにウテツ辺に限らず、南部、津軽辺の村民も大かたはエゾ種なるべし。只早く皇化に浴して風俗言語も改りたる所は、先祖より日本人のごとくいひなし居る事とぞ思はる。故に礼儀文華のいまだ開けざるはもつともの事なり。」と記されてあるが、それから約百五十年、地下の南谿を今日この坦々たるコ
前へ 次へ
全57ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング