限らず東北各地にこれと似たる風俗あり。東北の夏祭りの山車《だし》と思はば大過なからん歟。)の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。」といふ、あはれと言ふより他には全く言ひやうのない有様が記されてあつて、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガヅ(津軽では、凶作の事をケガヅと言ふ。飢渇《きかつ》の訛りかも知れない。)の酸鼻戦懐の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になつて泣きべそをかいてしまつたものだが、久し振りで故郷に帰り、このやうな記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さへ感ぜられて、
「これは、いかん。」と言つた。「科学の世の中とか何とか偉さうな事を言つてたつて、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教へてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」
「いや、技師たちもいろいろ研究はしてゐるのだ。冷害に堪へるやうに品種が改良されてもゐるし、植附けの時期にも工夫が加へられて、今では、昔のやうに徹底した不作など無くなつたけれども、でも、それでも、やつぱり、四、五年に一度は、いけない時があるんだねえ。」
「だらしが無え。」私は、誰にとも無き忿懣で、口を曲げてののしつた。
N君は笑つて、
「沙漠の中で生きてゐる人もあるんだからね。怒つたつて仕様がないよ。こんな風土からはまた独得な人情も生れるんだ。」
「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、僕なんか、いつでも南国の芸術家には押され気味だ。」
「それでも君は、負けないぢやないか。津軽地方は昔から他国の者に攻め破られた事が無いんだ。殴られるけれども、負けやしないんだ。第八師団は国宝だつて言はれてゐるぢやないか。」
生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすつて育つた私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝はつてゐないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違ひないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるやうに努力するより他には仕方がないやうだ。いたづらに過去の悲惨に歎息せず、N君みたいにその櫛風沐雨の伝統を鷹揚に誇つてゐるはうがいいのかも知れない。しかも津軽だつて、いつまでも昔のやうに酸鼻の地獄絵を繰り返してゐるわけではない。その翌日、私はN君に案内してもらつて、外ヶ浜街道をバスで北上し、三厩で一泊して、それからさらに海岸の波打際の心細い路を歩いて本州の北端、竜飛岬まで行つたのであるが、その三厩竜飛間の荒涼索莫たる各部落でさへ、烈風に抗し、怒濤に屈せず、懸命に一家を支へ、津軽人の健在を可憐に誇示してゐたし、三厩以南の各部落、殊にも三厩、今別などに到つては瀟洒たる海港の明るい雰囲気の中に落ちつき払つた生活を展開して見せてくれてゐたのである。ああ、いたづらにケガヅの影におびえる事なかれである。以下は佐藤弘といふ理学士の快文章であるが、私のこの書の読者の憂鬱を消すために、なほまた私たち津軽人の明るい出発の乾盃の辞としてちよつと借用して見よう。佐藤理学士の奥州産業総説に曰く、「撃てば則ち草に匿れ、追へば即ち山に入つた蝦夷族の版図たりし奥州、山岳重畳して到るところ天然の障壁をなし、以て交通を阻害してゐる奥州、風波高く海運不便なる日本海と、北上山脈にさへぎられて発達しない鋸歯状の岬湾の多い太平洋とに包まれた奥州。しかも冬期降雪多く、本州中で一番寒く、古来、数十回の凶作に襲来されたといふ奥州。九州の耕地面積二割五分に対して、わづかに一割半を占むる哀れなる奥州。どこから見ても不利な自然的条件に支配されてゐるその奥州は、さて、六百三十万の人口を養ふに、今日いかなる産業に拠つてゐるであらうか。
どの地理書を繙いても、奥州の地たるや本州の東北端に僻在し、衣、食、住、いづれも粗樸、とある。古来からの茅葺、柾葺、杉皮葺は、とにかくとして、現在多くの民は、トタン葺の家に住み、ふろしきを被つて、もんぺいをはき、中流以下悉く粗食に甘んじてゐる、といふ。真偽や如何。それほど奥州の地は、産業に恵まれてゐないのであらうか。高速度を以て誇りとする第二十世紀の文明は、ひとり東北の地に到達してゐないのであらうか。否、それは既に過去の奥州であつて、人もし現代の奥州に就いて語らんと欲すれば、まづ文芸復興直前のイタリヤに於いて見受けられたあの鬱勃たる擡頭力を、この奥州の地に認めな
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