で戦死をなさつたので、N君夫妻は、この三人の遺児を当然の事として育て、自分の子供と全く同様に可愛がつてゐるのだ。奥さんの言に依れば、N君は可愛がりすぎる傾きさへあるさうだ。三人の遺児のうち、一番の総領は青森の工業学校にはひつてゐるのださうで、その子が或る土曜日に青森から七里の道をバスにも乗らずてくてく歩いて夜中の十二時頃に蟹田の家へたどり着き、伯父さん、伯父さん、と言つて玄関の戸を叩き、N君は飛び起きて玄関をあけ、無我夢中でその子の肩を抱いて、歩いて来たのか、へえ、歩いて来たのか、と許り言つてものも言へず、さうして、奥さんを矢鱈に叱り飛ばして、それ、砂糖湯を飲ませろ、餅を焼け、うどんを温めろと、矢継早に用事を言ひつけ、奥さんは、この子は疲れて眠いでせうから、と言ひかけたら、「な、なにい!」と言つて頗る大袈裟に奥さんに向つてこぶしを振り上げ、あまりにどうも珍妙な喧嘩なので、甥のその子が、ぷつと噴き出して、N君もこぶしを振り上げながら笑ひ出し、奥さんも笑つて、何が何やら、うやむやになつたといふ事などもあつたさうで、それもまた、N君の人柄の片鱗を示す好箇の挿話であると私には感じられた。
「七転び八起きだね。いろんな事がある。」と言つて私は、自分の身の上とも思ひ合せ、ふつと涙ぐましくなつた。この善良な友人が、馴れぬ手つきで、工場の隅で、ひとり、ばつたんばつたん筵を織つてゐる侘しい姿が、ありありと眼前に見えるやうな気がして来た。私は、この友人を愛してゐる。
その夜はまた、お互ひ一仕事すんだのだから、などと言ひわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合つた。N君は青森県郷土史研究会の会員だつたので、郷土史の文献をかなり持つてゐた。
「何せ、こんなだからなあ。」と言つてN君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のやうな、津軽凶作の年表とでもいふべき不吉な一覧表が載つてゐた。
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元和一年 大凶
元和二年 大凶
寛永十七年 大凶
寛永十八年 大凶
寛永十九年 凶
明暦二年 凶
寛文六年 凶
寛文十一年 凶
延宝二年 凶
延宝三年 凶
延宝七年 凶
天和一年 大凶
貞享一年 凶
元禄五年 大凶
元禄七年 大凶
元禄八年 大凶
元禄九年 凶
元禄十五年 半凶
宝永二年 凶
宝永三年 凶
宝永四年 大凶
享保一年 凶
享保五年 凶
元文二年 凶
元文五年 凶
延享二年 大凶
延享四年 凶
寛延二年 大凶
宝暦五年 大凶
明和四年 凶
安永五年 半凶
天明二年 大凶
天明三年 大凶
天明六年 大凶
天明七年 半凶
寛政一年 凶
寛政五年 凶
寛政十一年 凶
文化十年 凶
天保三年 半凶
天保四年 大凶
天保六年 大凶
天保七年 大凶
天保八年 凶
天保九年 大凶
天保十年 凶
慶応二年 凶
明治二年 凶
明治六年 凶
明治二十二年 凶
明治二十四年 凶
明治三十年 凶
明治三十五年 大凶
明治三十八年 大凶
大正二年 凶
昭和六年 凶
昭和九年 凶
昭和十年 凶
昭和十五年 半凶
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津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだらう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があつたのである。まづ五年に一度づつ凶作に見舞はれてゐるといふ勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用ゐたり。五月に到り苗の生長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植附けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲冪々として天候朦々晴天白日を見る事殆ど稀なり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月|佞武多《ねぶた》(作者註。陰暦七夕の頃、武者の形あるいは竜虎の形などの極彩色の大燈籠を荷車に載せて曳き、若い衆たちさまざまに扮装して街々を踊りながら練り歩く津軽年中行事の一つである。他町の大燈籠と衝突して喧嘩の事必ずあり。坂上田村麻呂、蝦夷征伐の折、このやうな大燈籠を見せびらかして山中の蝦夷をおびき寄せ之を殱滅せし遺風なりとの説あれども、なほ信ずるに足らず。津軽に
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