何だか植ゑるつて話を聞いたけど。」
「土地によるのぢやないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」
 大川の土手の陰に、林檎畑があつて、白い粉つぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂ひを感ずる。
「けいちやんからも、ずいぶん林檎を送つていただいたね。こんど、おむこさんをもらふんだつて?」
「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。
「いつ? もう近いの?」
「あさつてよ。」
「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。「帰らう。いそがしいんだらう?」
「いいえ、ちつとも。」ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。
「あした小沼へ行つて、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言つた。「たけに逢はうと思つてゐるんだ。」
「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」
「うん。さう。」
「よろこぶでせうねえ。」
「どうだか。逢へるといいけど。」
 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない。以下は、自作「思ひ出」の中の文章である。
「六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放《つ》けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐
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