ろしくて泣き出した。
 そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のやうに立つてゐた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のやうな黒い鉄の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止つてじつと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言つた。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻つて、かならずひつそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つてその金輪のどれを廻して見ても皆言ひ合せたやうにからんからんと逆廻りした日があつたのである。私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。(中略)やがて私は故郷の小学校へ入つたが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしてゐた。私に学校の成績を聞いた。私は答へなかつた。ほかの誰かが代つて知らせたやうだ。たけは、油断大敵でせえ、と言つただけで格別ほめもしなかつた。」
 私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。さうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はつと思つた。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけゐない、たけゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない。それから、一年ほど経つて、ひよつくりたけと逢つたが、たけは、へんによそよそしくしてゐるので、私にはひどく怨めしかつた。それつきり、たけと逢つてゐない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの
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