、巨大の根つこを抱きかかへて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちよつと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やつと半分くらゐ渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じやぶじやぶと水の中を歩いて渡つてしまつた。モンペの裾も白足袋も草履も、びしよ濡れになつた様子である。
「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさつきの高山へ遠足してみじめな姿で帰つた話をふと思ひ出したらしく、笑ひながらさう言つて、陽子もお婿さんも、どつと笑つたら、兄は振りかへつて、
「え? 何?」と聞いた。みんな笑ふのをやめた。兄がへんな顔をしてゐるので、説明してあげようかな、とも思つたが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまつて「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かつた。兄は黙つて歩き出した。兄は、いつでも孤独である。

     五 西海岸

 前にも幾度となく述べて来たが、私は津軽に生れ、津軽に育ちながら、今日まで、ほとんど津軽の土地を知つてゐなかつた。津軽の日本海方面の西海岸には、それこそ小学校二、三年の頃の「高山行き」以外、いちども行つた事がない。高山といふのは、金木からまつすぐ西に三里半ばかり行き車力《しやりき》といふ人口五千くらゐのかなり大きい村をすぎて、すぐ到達できる海浜の小山で、そこのお稲荷さんは有名なものださうであるが、何せ少年の頃の記憶であるから、あの服装の失敗だけが色濃く胸中に残つてゐるくらゐのもので、あとはすべて、とりとめも無くぼんやりしてしまつてゐる。この機会に、津軽の西海岸を廻つてみようといふ計画も前から私にあつたのである。鹿の子川溜池へ遊びに行つたその翌日、私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかへ、十分経つか経たぬかのうちに、木造《きづくり》駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと見て置きたいと思つてゐたのだ。降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少いやうだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が、どつどつと、だるげに聞えて来る。どこかの軒下で、鳩が鳴いてゐる。ここは、私の父が生れた土地なのである。金木の私の家では代々、女ばかりで、たいてい婿養子を迎へてゐる。父はこの町のMといふ旧家
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