言を附加えた。
「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」
「失礼ですが、あなたは、どなたです。」
「あら、あたしは、ただ、あなたのお傍に。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらして下さい。おいや?」
「いやじゃないが、」魚容は狼狽《ろうばい》して、「乃公《おれ》にはちゃんと女房があります。浮気は君子の慎しむところです。あなたは、乃公を邪道に誘惑しようとしている。」と無理に分別顔を装うて言った。
「ひどいわ。あたしが軽はずみの好色の念からあなたに言い寄ったとでもお思いなの? ひどいわ。これはみな呉王さまの情深いお取りはからいですわ。あなたをお慰め申すように、あたしは呉王さまから言いつかったのよ。あなたはもう、人間でないのですから、人間界の奥さんの事なんか忘れてしまってもいいのよ。あなたの奥さんはずいぶんお優しいお方かも知れないけれど、あたしだってそれに負けずに、一生懸命あなたのお世話をしますわ。烏の操《みさお》は、人間の操よりも、もっと正しいという事をお見せしてあげますから、おいやでしょうけれど、これから、あたしをお傍に置いて下さいな。あたしの名前は、竹青というの。」
 魚容は情に感じて、
「ありがとう。乃公も実は人間界でさんざんの目に遭《あ》って来ているので、どうも疑い深くなって、あなたの御親切も素直に受取る事が出来なかったのです。ごめんなさい。」
「あら、そんなに改まった言い方をしては、おかしいわ。きょうから、あたしはあなたの召使いじゃないの。それでは旦那《だんな》様、ちょっと食後の御散歩は、いかがでしょう。」
「うむ、」と魚容もいまは鷹揚《おうよう》にうなずき、「案内たのむ。」
「それでは、ついていらっしゃい。」とぱっと飛び立つ。
 秋風|嫋々《じょうじょう》と翼を撫《な》で、洞庭の烟波《えんぱ》眼下にあり、はるかに望めば岳陽の甍《いらか》、灼爛《しゃくらん》と落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐《かれん》一点の翠黛《すいたい》を描いて湘君《しょうくん》の俤《おもかげ》をしのばしめ、黒衣の新夫婦は唖々《ああ》と鳴きかわして先になり後になり憂《うれ》えず惑わず懼《おそ》れず心のままに飛翔
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