竹青
――新曲聊斎志異――
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)湖南《こなん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)馬|嘶《いななき》て白日暮れ、

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(例)[#ここから5字下げ]
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 むかし湖南《こなん》の何とやら郡邑《ぐんゆう》に、魚容という名の貧書生がいた。どういうわけか、昔から書生は貧という事にきまっているようである。この魚容君など、氏《うじ》育ち共に賤《いや》しくなく、眉目《びもく》清秀、容姿また閑雅《かんが》の趣《おもむ》きがあって、書を好むこと色を好むが如《ごと》しとは言えないまでも、とにかく幼少の頃より神妙に学に志して、これぞという道にはずれた振舞いも無かった人であるが、どういうわけか、福運には恵まれなかった。早く父母に死別し、親戚《しんせき》の家を転々して育って、自分の財産というものも、その間に綺麗《きれい》さっぱり無くなっていて、いまは親戚一同から厄介者《やっかいもの》の扱いを受け、ひとりの酒くらいの伯父《おじ》が、酔余《すいよ》の興にその家の色黒く痩《や》せこけた無学の下婢《かひ》をこの魚容に押しつけ、結婚せよ、よい縁だ、と傍若無人に勝手にきめて、魚容は大いに迷惑ではあったが、この伯父もまた育ての親のひとりであって、謂《い》わば海山の大恩人に違いないのであるから、その酔漢の無礼な思いつきに対して怒る事も出来ず、涙を怺《こら》え、うつろな気持で自分より二つ年上のその痩せてひからびた醜い女をめとったのである。女は酒くらいの伯父の妾《めかけ》であったという噂《うわさ》もあり、顔も醜いが、心もあまり結構でなかった。魚容の学問を頭から軽蔑して、魚容が「大学の道は至善に止《とどま》るに在《あ》り」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止って、おいしい御馳走《ごちそう》に止る工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って、「あなた、すみませんが、これをみな洗濯して下さいな。少しは家事の手助けもするものです」と魚容の顔をめがけて女のよごれ物を投げつける。魚容はそのよごれ物をかかえて裏の河原におもむき、「馬|嘶《いななき》て白日暮れ、剣鳴て秋気来る」と小声で吟じ、さて、何の面白い事もなく、わが故土にいながらも天涯の
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