言葉も古書にある。よろしく窓を開くべしだ。漢陽の春の景色を満喫しよう。」
 魚容は、垂幕を排して部屋の窓を押しひらいた。朝の黄金の光が颯《さ》っと射し込み、庭園の桃花は、繚乱《りょうらん》たり、鶯《うぐいす》の百囀《ひゃくてん》が耳朶《じだ》をくすぐり、かなたには漢水の小波《さざなみ》が朝日を受けて躍っている。
「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」魚容は思わずそう言ってしまって、愕然《がくぜん》とした。乃公は未だあの醜い女房を愛しているのか、とわが胸に尋ねた。そうして、急になぜだか、泣きたくなった。
「やっぱり、奥さんの事は、お忘れでないと見える。」竹青は傍で、しみじみ言い、幽《かす》かな溜息をもらした。
「いや、そんな事は無い。あれは乃公の学問を一向に敬重せず、よごれ物を洗濯させたり、庭石を運ばせたりしやがって、その上あれは、伯父の妾であったという評判だ。一つとして、いいところが無いのだ。」
「その、一つとしていいところの無いのが、あなたにとって尊くなつかしく思われているのじゃないの? あなたの御心底は、きっと、そうなのよ。惻隠《そくいん》の心は、どんな人にもあるというじゃありませんか。奥さんを憎まず怨《うら》まず呪わず、一生涯、労苦をわかち合って共に暮して行くのが、やっぱり、あなたの本心の理想ではなかったのかしら。あなたは、すぐにお帰りなさい。」竹青は、一変して厳粛な顔つきになり、きっぱりと言い放つ。
 魚容は大いに狼狽《ろうばい》して、
「それは、ひどい。あんなに乃公を誘惑して、いまさら帰れとはひどい。郷原だの何だのと言って乃公を攻撃して故郷を捨てさせたのは、お前じゃないか。まるでお前は乃公を、なぶりものにしているようなものだ。」と抗弁した。
「あたしは神女です。」と竹青は、きらきら光る漢水の流れをまっすぐに見つめたまま、更にきびしい口調で言った。「あなたは、郷試には落第いたしましたが、神の試験には及第しました。あなたが本当に烏の身の上を羨望《せんぼう》しているのかどうか、よく調べてみるように、あたしは呉王廟の神様から内々に言いつけられていたのです。禽獣《きんじゅう》に化して真の幸福を感ずるような人間は、神に最も倦厭《けんえん》せられます。いちどは、こらしめのため、あなたを弓矢で傷つけて、人間界にかえしてあげましたが、あなたは再び烏の世界
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