の身なりをした爺《じじい》が傍に立っていて笑いながら尋ねる。
「あなたは、どなたです。」
「わしはこの辺の百姓だが、きのうの夕方ここを通ったら、お前さんが死んだように深く眠っていて、眠りながら時々微笑んだりして、わしは、ずいぶん大声を挙げてお前さんを呼んでも一向に眼を醒まさない。肩をつかんでゆすぶっても、ぐたりとしている。家へ帰ってからも気になるので、たびたびお前さんの様子を見に来て、眼の醒めるのを待っていたのだ。見れば、顔色もよくないが、どこか病気か。」
「いいえ、病気ではございません。」不思議におなかも今はちっとも空《す》いていない。「すみませんでした。」とれいのあやまり癖が出て、坐り直して農夫に叮嚀《ていねい》にお辞儀をして、「お恥かしい話ですが、」と前置きをしてこの廟の廊下に行倒れるにいたった事情を正直に打明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。
農夫は憐《あわ》れに思った様子で、懐《ふところ》から財布《さいふ》を取出しいくらかの金を与え、
「人間万事|塞翁《さいおう》の馬。元気を出して、再挙を図《はか》るさ。人生七十年、いろいろさまざまの事がある。人情は飜覆《ほんぷく》して洞庭湖の波瀾《はらん》に似たり。」と洒落《しゃれ》た事を言って立ち去る。
魚容はまだ夢の続きを見ているような気持で、呆然《ぼうぜん》と立って農夫を見送り、それから振りかえって楓の梢にむらがる烏を見上げ、
「竹青!」と叫んだ。一群の烏が驚いて飛び立ち、ひとしきりやかましく騒いで魚容の頭の上を飛びまわり、それからまっすぐに湖の方へいそいで行って、それっきり、何の変った事も無い。
やっぱり、夢だったかなあ、と魚容は悲しげな顔をして首を振り、一つ大きい溜息《ためいき》をついて、力無く故土に向けて発足する。
故郷の人たちは、魚容が帰って来ても、格別うれしそうな顔もせず、冷酷の女房は、さっそく伯父の家の庭石の運搬を魚容に命じ、魚容は汗だくになって河原から大いなる岩石をいくつも伯父の庭先まで押したり曳《ひ》いたり担《かつ》いだりして運び、「貧して怨《えん》無きは難し」とつくづく嘆じ、「朝《あした》に竹青の声を聞かば夕《ゆうべ》に死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇《はげ》しく懐慕せられるのである。
伯夷叔斉《はくいしゅくせい》は旧悪を念《おも》わず
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