ないのである。それから、また十年、つるは私の遠い思い出の奥で小さく、けれども決して消えずに尊く光ってはいるのだが、その姿は純粋に思い出の中で完成され固定されてしまっているので、まさか、いまのこの現実の生活と、つながるなどとは、思いも及ばぬことであった。
「つるは、甲府にいたのですか?」私は、それさえ知らなかった。
「え、父がこの土地で、店をひらいて居りました。」
「甲斐絹問屋につとめて居られた、――」つるの亭主が、甲斐絹問屋の番頭だったことは、私も、まえに家の人たちから聞いたことがあるので、それは、忘れずに知っていた。
「え、谷村《やむら》の丸三《まるさん》という店に奉公して居りましたが、のちに、独立して、甲府で呉服屋をはじめました。」
 言いかたが、生きている人のことを語っているようでも無いので、
「お達者ですか。」
「は、なくなりました。」はっきり答えて、それから少し寂しそうにして、笑った。
「それじゃ、御両親とも。」
「そうなんです。」幸吉さんは、淡々としていた。「母が死んだのは、ごぞんじなんですね。」
「知っています。私が、高等学校へはいったとしに、聞きました。」
「十二年まえ
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