早春のころに、私はここで、しばらく仕事をしていたことがある。雨の降る日に、傘もささずに銭湯へ出かけた。銭湯は、すぐ近いのである。途中、雨合羽着た郵便屋さんと、ふと顔を見合せ、
「あ、ちょいと。」郵便屋が、小声で私を呼びとめたのである。
私は、驚かなかった。何か、私あての郵便が来たのだろうと思って、にこりともせず、だまって郵便屋へ手を差し出した。
「いいえ、きょうは、郵便来ていません。」そう言って微笑《ほほえ》む郵便屋の鼻の先には、雨のしずくが光っていた。二十二、三の頬の赤い青年である。可愛い顔をしていた。
「あなたは、青木大蔵さん。そうですね。」
「ええ、そうです。」青木大蔵というのは、私の、本来の戸籍名である。
「似ています。」
「なんですか。」私は、少し、まごついた。
郵便屋は、にこにこ笑っている。雨に濡れながら二人、路上でむき合って立ったまま、しばらく黙っている。へんなものだった。
「幸吉さんを知っていますか。」いやに、なれなれしく、幾分からかうような口調で、そんなこと言い出した。「内藤幸吉さんを。ご存じでしょう?」
「内藤、幸吉、ですか?」
「ええ、そうです。」郵便屋は、も
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