行くにきまっているのだ。内藤幸吉。いくら考えたって、そんなもの知りやしない。しかも、兄弟だなんて、ばかばかしい。人ちがいであることは、明白だ。いずれ、逢えば、すべての黒白は、つく筈だ。それにしても、私のこの不愉快さは、どうしてくれる。見知らぬ他人から、兄さん、おなつかしゅう、など言われて、ふざけた話だ。いやらしい。なまぬるく、べとべとして、喜劇にもならない。無智である。安っぽい。
がまんできぬ屈辱感にやられて、風呂からあがり、脱衣場の鏡に、自分の顔をうつしてみると、私は、いやな兇悪《きょうあく》な顔をしていた。
不安でもある。きょうのこの、思わぬできごとのために、私の生涯が、またまた、逆転、てひどい、どん底に落ちるのではないか、と過去の悲惨も思い出され、こんな、降ってわいた難題、たしかに、これは難題である、その笑えない、ばかばかしい限りの難題を持てあまして、とうとう気持が、けわしくなってしまって、宿へかえってからも、無意味に、書きかけの原稿用紙を、ばりばり破って、そのうちに、この災難に甘えたい卑劣な根性も、頭をもたげて来て、こんなに不愉快で、仕事なんてできるものか、など申しわけみたいに呟《つぶや》いて、押入れから甲州産の白葡萄酒の一升|瓶《びん》をとり出し、茶呑茶碗で、がぶがぶのんで、酔って来たので蒲団ひいて寝てしまった。これも、なかなか、ばかな男である。
宿の女中に起された。
「もし、もし、お客さんですよ。」
来たな、とがばと跳ね起き、
「とおして呉《く》れ。」
電燈が、ぼっと、ともっていた。障子が、浅黄色。六時ごろでもあろうか。
私は素早く蒲団をたたみ押入れにつっこんで、部屋のその辺を片づけて、羽織をひっかけ、羽織|紐《ひも》をむすんで、それから、机の傍にちゃんと坐って身構えた。異様な緊張であった。まさか、こんな奇妙な経験は、私としても、一生に二度とは、あるまい。
客は、ひとりであった。久留米絣《くるめがすり》を着ていた。女中に通され、黙って私のまえに坐って、ていねいな、永いお辞儀をした。私は、せかせかしていた。ろくろく、お辞儀もかえさず、
「ひと違いなんです。お気の毒ですが、ひと違いなんです。ばかばかしいのです。」
「いいえ。」低くそう言って、お辞儀の姿勢のままで、振り仰いだ顔は、端正である。眼が大きすぎて、少し弱い、異常な感じを与えるけれど、額
前へ
次へ
全16ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング