う私が知っていることにきめてしまったらしく、自信たっぷりで首肯する。
私は、なお少し考えて、
「存じませんね。」
「そうですか。」こんどは郵便屋もまじめに首をかしげて、「あなたは、おくには、津軽のほうでしょう?」
とにかく雨にこんなに濡れては、かなわないので、私は、そっと豆腐屋の軒下に難を避けて、
「こちらへいらっしゃい。雨が、ひどくなりました。」
「ええ。」と素直に、私と並んで豆腐屋の軒下に雨宿りして、「津軽でしょう?」
「そうです。」自分でも、はっと思ったほど、私は不気嫌な答えかたをしてしまった。片言半句でも、ふるさとのことに触《ふ》れられると、私は、したたか、しょげるのである。痛いのである。
「それじゃ、たしかだ。」郵便屋は、桃の花の頬に、靨《えくぼ》を浮べて笑った。「あなたは幸吉さんの兄さんです。」
私は、なぜか、どきっとした。いやな気がした。
「へんなことを、おっしゃいますね。」
「いいえ、もう、それに違いないのです。」ひとりで、はしゃいで、「似ていますよ。幸吉さん、よろこぶだろうなあ。」
つばめのように、ひらと身軽に雨の街路に躍り出て、
「それじゃ、あとでまた。」少し走って、また振りかえり、「すぐに幸吉さんに知らせてあげますから、ね。」
ひとり豆腐屋の軒下に、置き残され、私は夢みるようであった。白日夢。そんな気がした。ひどくリアリティがない。ばかげた話である。とにかく、銭湯まで一走り。湯槽《ゆぶね》に、からだを沈ませて、ゆっくり考えてみると、不愉快になって来た。どうにも、むかむかするのである。私が、おとなしく昼寝をしていて、なんにもしないのに、蜂《はち》が一匹、飛んで来て、私の頬を刺して、行った。そんな感じだ。全くの災難である。東京での、いろいろの恐怖を避けて、甲府へこっそりやって来て、誰にも住所を知らせず、やや、落ちついて少しずつ貧しい仕事をすすめて、このごろ、どうやら仕事の調子も出て来て、ほのかに嬉しく思っていたのに、これはまた、思いも設けぬ災難である。なんとも知れぬ人物が、ぞろぞろ目前にあらわれて、私に笑いかけ、話しかけ、私はそのお化けたちに包囲され、なんと挨拶の仕様もなく、ただうろうろしている図は、想像してさえ不愉快である。仕事も何も、あったものじゃない。いい加減に私を掻《か》きまわして、いや、どうも、人ちがいでした、と言って引きあげて
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