わいもの無し、どこかに凄《すご》い魔性のものはいないか、と懐手《ふところで》して三人、つまらなそうな様子で、上野|黒門《くろもん》より池《いけ》の端《はた》のほうへぶらりぶらり歩いて、しんちゅう屋の市右衛門《いちえもん》とて当時有名な金魚屋の店先にふと足をとどめ、中庭を覗《のぞ》けば綺麗《きれい》な生簀《いけす》が整然と七、八十もならび、一つ一つの生簀には清水が流れて水底には緑の藻《も》がそよぎ、金魚、銀魚、藻をくぐり抜けて鱗《うろこ》を光らせ、中には尾鰭《おひれ》の長さ五寸以上のものもあり、生意気な三粋人も、その見事さには無邪気に眼《め》を丸くして驚き、日本一の美人をここで見つけたと騒ぎ、なおも見ていると、その金魚を五両、十両の馬鹿《ばか》高い値段で、少しも値切らず平気で買って行く人が次々とあるので、やっぱり江戸は違う、上方には無い事だ、あの十両の金魚は大名の若様のおもちゃであろうか、三日養って猫《ねこ》に食われてそれでも格別くやしそうな顔もせずまたこの店へ来て買うのであろうな、いかさま武蔵野《むさしの》は広い、はじめて江戸を見直したわい、などと口々に勝手な事を言って単純に興奮し、これを見ただけでも江戸へ来たかいがあった、上方へのよい土産話が出来た、と互いによろこび首肯《うなず》き合っているところへ、賤《いや》しい身なりの小男が、小桶《こおけ》に玉網《たも》を持ち添えてちょこちょこと店へやって来て、金魚屋の番頭にやたらにお辞儀をしてお追従《ついしょう》笑いなどしている。小桶を覗いてみると無数のぼうふらがうようよ泳いでいる。
「金魚のえさか。」とひとりが興覚め顔して呟《つぶや》いた。
「えさだ。」もうひとりも、溜息《ためいき》をついて言った。
 何だか白けた真面目《まじめ》な気持ちになってしまった。たかが金魚を、一つ十両で平然と買って行く人もあり、また一方では、その餌《えさ》のぼうふらを売って、ほそぼそと渡世している人もある。江戸は底知れずおそろしいところだ、と苦労知らずの三粋人も、さすがに感無量の態《てい》であった。
 小桶に一ぱいのぼうふらを、たった二十五文で買ってもらって、それでも嬉《うれ》しそうに、金魚屋の下男にまで、それではまた、と卑《いや》しい愛嬌《あいきょう》を振り撤《ま》きいそいそと立ち去るその小男のうしろ姿を見送ってひとりが、
「おや、あれは、利左《りざ》じゃないか。」と言ったので、他《ほか》の二人は、ぎょっとした。
 月夜の利左という浮名を流し、それこそ男振りはよし、金はあり、この三粋人と共に遊んで四天王と呼ばれ、数年前に吉州という評判の名妓《めいぎ》を請出《うけだ》し、ふっと姿をかくした利左衛門《りざえもん》、それが、まさか、と思えども見れば見るほど、よく似ている。
「利左だ、間違いない。」とひとりは強く断定を下し、「あの右肩をちょっと上げて歩く癖は、むかしから利左の癖で、あれがまた小粋《こいき》だと言って、わしにも右肩を上げて歩けとうるさくすすめる女があって閉口した事がある。利左に違いない。それ、呼びとめろ。」
 三人は走って、ぼうふら売りをつかまえてみると、むざんや、まさしく利左がなれの果。
「利左、お前はひどい。吉州には、わしも少し惚《ほ》れていたが、何もお前、そんな、わしはお前を恨みに思ったりなんかしてやしないよ。黙って姿を消すなんて、水くさいじゃないか。」
と吉郎兵衛が言えば、甚太夫も、
「そうよ、そうよ。どんなつらい事情があったって、一言くらいわしたちに挨拶《あいさつ》して行くのが本当だぞ。困った事が起った時には、お互い様さ。茶屋酒のんで騒ぐばかりが友達じゃない。見れば、ひでえ身なりで、まあ、これがあの月夜の利左かい。わしたちにたった一言でも知らせてくれたら、こんな事になりはしなかったのに、ぼうふら売りとは洒落《しゃれ》が過ぎらあ。」と悪口を言いながら涙を流し、六右衛門は分別顔して、利左衛門の痩《や》せた肩を叩《たた》き、
「利左、でも、逢《あ》えてよかった。どこへ行ったかと心配していたのだ。お前がいなくなったら、淋《さび》しくてなあ。上方の遊びもつまらなくなって、こうして江戸へ出て来たが、お前と一緒でないと、どこの遊びも面白《おもしろ》くない。ここで逢《お》うたが百年目さ。どうだい、これから、わしたちと一緒に上方へ帰って、また昔のように四人で派手に遊ぼうじゃないか。お金の事や何かは心配するな。口はばったいが、わしたち三人が附《つ》いている。お前の一生は引受けた。」
と頼もしげな事を言ったが、利左は、顔を青くしてふんと笑い、そっぽを向きながら、
「何を言っていやがる。人の世話など出来る面《つら》かよ。わざわざこの利左をなぶりに上方からやって来たのか。御苦労な事だ。こっちは、これが好きでやっているのさ。かまわないでくれ。遊びの果は皆こんなものだ。ふん。いまにお前たちだって、どんな事になるかわかったものじゃない。一生引受けたは笑わせやがる。でもまあ昔の馴染甲斐《なじみがい》に江戸の茶碗酒《ちゃわんざけ》でも一ぱい振舞ってやろうか。利左は落ぶれてもお前たちのごちそうにはならんよ。酒を飲みたかったら附いて来い。あはは。」と空虚な笑い方をして、小桶を手にさげてすたすた歩く。三人は、気まずい思いで顔を見合せ、とにかく利左の後を追って行くと、利左はひどく汚い居酒屋へのこのこはいって行って、財布をさかさに振り、
「おやじ、これだけある。昔の朋輩《ほうばい》におごってやるんだ。茶碗で四はい。」と言って、昔に変らず気前のいいところを見せたつもりで、先刻の二十五文を残らず投げ出せば、入口でうろうろしている三人は、ああ、あの金は利左の妻子が今夜の米代としてあてにして、いまごろは鍋《なべ》を洗って待っているだろうに、おちぶれても、つまらぬ意地と見栄《みえ》から、けちでないところを見せたつもりかも知れないが、あわれなものだ、と暗然とした。
「おい、まごまごしてないで、ここへ腰かけて飲めよ。茶碗酒の味も忘れられぬ。」と口をゆがめて苦笑いしながら、わざと下品にがぶがぶ飲み、手の甲で口のまわりをぐいとぬぐって、「ああ、うめえ。」とまんざら嘘《うそ》でもないように低く呻《うめ》いた。三人も、おそるおそる店の片隅《かたすみ》に腰をおろして、欠けた茶碗を持ち無言で乾盃《かんぱい》して、少し酔って来たので口も軽くなり、
「時に利左、いまでも、やはり吉州と?」
「いまでも、とは何だ。」と利左は言葉を荒くして聞きとがめ、「粋人らしくもねえ。口のききかたに気をつけろ。」と言って、すぐまた卑屈ににやりと笑い、「その女ゆえに、御覧のとおりのぼうふら売りさ。悪い事は言わねえ。お前たちもいい加減に茶屋遊びを切り上げたほうがいいぜ。上方一と言われた女も、手活《ていけ》の花として眺《なが》めると、三日|経《た》てば萎《しお》れる。いまじゃ、長屋の、かかになって、ひとつき風呂《ふろ》へ行かなくても平気でいる。」
「子供もあるのか。」
「あたりめえよ。間の抜けた事を聞くな。親にも似ねえ猿《さる》みたいな顔をした四つの男の子が、根っからの貧乏人の子らしく落ちついて長屋で遊んでいやがる。見せてやろうか。少しはお前たちのいましめになるかも知れねえ。」
「連れて行ってくれ。吉州にも逢いたい。」と吉郎兵衛は本音を吐いた。利左は薄気味悪い微笑を頬《ほお》に浮べて、
「見たら、あいそが尽きるぜ。」と言い、蹌踉《そうろう》と居酒屋を出た。
 谷中《やなか》の秋の夕暮は淋しく、江戸とは名ばかり、このあたりは大竹藪《おおたけやぶ》風にざわつき、鶯《うぐいす》ならぬむら雀《すずめ》の初音町《はつねちょう》のはずれ、薄暗くじめじめした露路を通り抜けて、額におしめの滴《しずく》を受け、かぼちゃの蔓《つる》を跨《また》ぎ越え、すえ葉も枯れて生垣《いけがき》に汚くへばりついている朝顔の実一つ一つ取り集めている婆《ばば》の、この種を植えてまた来年のたのしみ、と来年どころか明日知れぬ八十あまりらしい見るかげも無き老躯《ろうく》を忘れて呟いている慾《よく》の深さに、三人は思わず顔を見合せて呆《あき》れ、利左ひとりは、何ともない顔をして小腰をかがめ、婆さま、その朝顔の実を一つ二つわしの家へもわけて下さいまし、何だか曇ってまいりましていけませぬ、など近所のよしみ、有合せのつらいお世辞を言い、陰干しの煙草《たばこ》をゆわえた細縄《ほそなわ》の下をくぐって突き当りのあばらやの、窓から四歳の男の子が、やあれ、ととさまが、ぜぜ持ってもどらしゃった、と叫ぶもふびん、三人の足は一様に立ちすくんだ。利左は平気を装い、
「ここだ、この家だ。三人はいったら、坐《すわ》るところが無いぞ。」と笑い、「おい、お客さまだぞ。」と内儀に声を掛ければ、内より細き声して、
「そのお三人のうち、伊豆屋《いずや》吉郎兵衛さま、お帰り下さいまし。そのお方には昔お情にあずかった事がございます。」という。吉郎兵衛へどもどして、
「いや、それはお固い。昔の事はさらりと水に流して。」と言えば、利左も、くるしそうに笑い、
「そうだ、そうだ。長屋の嬶《かか》にお情もくそもあるものか。自惚《うぬぼれ》ちゃいけねえ。」とすさんだ口調で言い、がたぴし破戸《やれど》をあけて三人を招き入れ、「座蒲団《ざぶとん》なんて洒落たものはねえぞ。お茶くらいは出す。」
 女房《にょうぼう》は色青ざめ、ぼろの着物の裾《すそ》をそそくさと合せて横坐りに坐って乱れた髪を掻《か》き上げ、仰向いて三人の顔を見て少し笑い、
「まあ。」と小さい声で言ったきり、お辞儀をするのも忘れている。亭主《ていしゅ》はいそがしそうに狭い部屋を歩きまわり、仏壇の戸びらの片方はずれているのを引きむしり、菜切庖丁《なきりぼうちょう》で打ち割って、七輪《しちりん》にくべてお茶をわかし、先刻窓から顔を出していた子供はと見れば、いつの間にか部屋の隅の一枚蒲団にこぶ巻になって寝ている。どうやらまっぱだかの様子で、唇《くちびる》を紫にしてがたがた寒さにふるえている。
「坊やは、寒そうだな。」と客のひとりが、つい口をすべらしたら、内儀は坐ったまま子供のほうを振り返って見て、「着物を着るのがいやなんですって。妙な癖で、着物を着せてもすぐ脱いで、ああしてはだかで寝るんです。疳《かん》の虫のせいでしょうよ。」とさり気なく言ったが、坊やは泣き声を出して、
「うそだ、うそだ。坊は、さっき溝《どぶ》へ落ちて、着るものが無くなったから、こうして寝かされて、着物のかわくのを待っているのだ。」という。内儀も気丈な女ながら、ここに到《いた》ってこらえかね、人前もはばからず、泣き伏す。亭主は七輪の煙にむせんだ振りをして眼をこする。三人の客は途方に暮れ、無言で眼まぜして帰り仕度をはじめ、挨拶もそこそこに草履《ぞうり》をつっかけて門口に出て、それから小声で囁《ささや》き合い、三人の所持の金子《きんす》全部、一歩金《いちぶきん》三十八、こまがね七十目ばかり取り集め、門口に捨てられてある小皿《こざら》の上に積みかさね、足音を忍ばせて立ち去った。狭い露路から出て、三人一緒にほっと大きい溜息をついた途端に、
「ふざけた真似《まね》をするな!」と背後に利左の声、ぎょっとして振りむくと利左衛門は金子を載せた小皿を持ち息せき切って、「人の家へやって来て、お茶も飲まずに帰り、そのうえ、こんな犬の糞《くそ》みたいなものを門口に捨てやがって、人間の附き合いの法も知らねえ鼻ったれ小僧め。よくもよくも、月夜の利左をなめやがったな。もう二度とふたたびお前たちの鼻の下の長いつらを見たくねえ。これを持ってとっとと帰れ!」と眼の色をかえて喚《わめ》き、「馬鹿にするな!」と件《くだん》の小皿を地べたにたたきつけて、ふっと露路の夕闇《ゆうやみ》に姿を消した。
「いや、ひどいめに遭った。」と吉郎兵衛は冷汗をぬぐい、「それにしても、吉州も、きたない女になりやがった。」
「色即是空《しきそくぜくう》か。」と甚太夫はひやかした。
「ほんとうに、」吉郎兵衛は、少し
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