、卵に由緒も何も。これは、お産に縁があるかと思って、婆の志。それにまた、おいしい料理の食べあきたお旦那は、よく、うで卵など、酔興に召し上りますので、おほほ。」
「それで、わかった。いや、結構。卵の形は、いつ見てもよい。いっその事、これに目鼻をつけてもらいましょうか。」と極めてまずい洒落を言った。婆は察して、売れ残りの芸者ひとりを呼んで、あれは素性の悪い大馬鹿の客だけれども、お金はまだいくらか持っているようだから、大晦日の少しは稼ぎになるだろう、せいぜいおだててやるんだね、と小声で言いふくめて、その不細工の芸者を客の座敷に突き出した。男は、それとも知らず、
「よう、卵に目鼻の御入来。」とはしゃいで、うで卵をむいて、食べて、口の端に卵の黄味をくっつけ、或《ある》いはきょうは惚《ほ》れられるかも知れぬと、わが家の火の車も一時わすれて、お酒を一本飲み、二本飲みしているうちに、何だかこの芸者、見た事があるような気がして来た。馬鹿ではあるが、女に就いての記憶は悪強い男であった。女は、大晦日の諸支払いの胸算用をしながらも、うわべは春の如《ごと》く、ただ矢鱈《やたら》に笑って、客に酒をすすめ、
「ああ、いやだ。また一つ、としをとるのよ。ことしのお正月に、十九の春なんて、お客さんにからかわれ、羽根を突いてもたのしく、何かいい事もあるかと思って、うかうか暮しているうちに、あなた、一夜明けると、もう二十《はたち》じゃないの。はたちなんて、いやねえ。たのしいのは、十代かぎり。こんな派手な振袖《ふりそで》も、もう来年からは、おかしいわね。ああ、いやだ。」と帯をたたいて、悶《もだ》えて見せた。
「思い出した。その帯をたたく手つきで思い出した。」男は記憶力の馬鹿強いところを発揮した。「ちょうどいまから二十年前、お前さんは花屋の宴会でわしの前に坐り、いまと同じ事を言い、そんな手つきで帯をたたいたが、あの時にもたしか十九と言った。それから二十年|経《た》っているから、お前さんは、ことし三十九だ。十代もくそもない、来年は四十代だ。四十まで振袖を着ていたら、もう振袖に名残《なごり》も無かろう。からだが小さいから若く見えるが、いまだに十九とは、ひどいじゃないか。」と粋人も、思わず野暮の高声になって攻めつけると、女は何も言わずに、伏目になって合掌した。
「わしは仏さんではないよ。縁起でもない。拝むなよ。興覚めるね。酒でも飲もう。」手をたたいて婆を呼べば、婆はいち早く座敷の不首尾に気附いて、ことさらに陽気に笑いながら座敷に駈けつけ、
「まあ、お旦那。おめでとうございます。どうしても、御男子ときまりました。」
「何が。」と客はけげんな顔。
「のんきでいらっしゃる。お宅のお産をお忘れですか。」
「あ、そうか。生れたか。」何が何やら、わけがわからなくなって来た。
「いいえ、それはわかりませんが、いまね、この婆が畳算《たたみざん》で占《うらな》ってみたところ、あなた、三度やり直しても同じ事、どうしても御男子。私の占いは当りますよ。旦那、おめでとうございます。」と両手をついてお辞儀をした。
客は、まぶしそうな顔をして、
「いやいや、そう改ってお祝いを言われても痛みいる。それ、これはお祝儀《しゅうぎ》。」と、またもや、財布から、一歩金一つ取り出して、婆の膝元に投げ出した。とても、いまいましい気持である。
婆は一歩金を押しいただき、
「まあ、どうしましょうねえ。暮から、このような、うれしい事ばかり。思えば、きょう、あけがたの夢に、千羽の鶴《つる》が空に舞い、四海《しかい》波《なみ》押しわけて万亀《ばんき》が泳ぎ、」と、うっとりと上目使いして物語をはじめながら、お金を帯の間にしまい込んで、「あの、本当でございますよ、旦那。眼がさめてから、やれ不思議な有難い夢よ、とひどく気がかりになっていたところにあなた、いきなお旦那が、お産のすむまで宿を貸せと台所口から御入来ですものねえ、夢は、やっぱり、正夢《まさゆめ》、これも、日頃のお不動信心のおかげでございましょうか。おほほ。」と、ここを先途《せんど》と必死のお世辞。
あまりと言えば、あまりの歯の浮くような見え透いたお世辞ゆえ、客はたすからぬ気持で、
「わかった、わかった。めでたいよ。ところで何か食うものはないか。」と、にがにがしげに言い放った。
「おや、まあ、」と婆は、大袈裟にのけぞって驚き、「どうかと心配して居《お》りましたのに、卵はお気に召したと見え、残らずおあがりになってしまった。すいなお方は、これだから好きさ。たべものにあきたお旦那には、こんなものが、ずいぶん珍らしいと見える。さ、それでは、こんど何を差し上げましょうか。数の子など、いかが?」これも、手数がかからなくていい。
「数の子か。」客は悲痛な顔をした。
「あら、だって、お産にちなんで数の子ですよ。ねえ、つぼみさん。縁起ものですものねえ。ちょっと洒落た趣向じゃありませんか。お旦那は、そんな酔興なお料理が、いちばん好きだってさ。」と言い捨てて、素早く立ち去る。
旦那は、いよいよ、むずかしい顔をして、
「いまあの婆は、つぼみさん、と言ったが、お前さんの名は、つぼみか。」
「ええ、そうよ。」女は、やぶれかぶれである。つんとして答える。
「あの、花の蕾《つぼみ》の、つぼみか。」
「くどいわねえ。何度言ったって同じじゃないの。あなただって、頭の毛が薄いくせに何を言ってるの。ひどいわ、ひどいわ。」と言って泣き出した。泣きながら、「あなた、お金ある?」と露骨な事を口走った。
客はおどろき、
「すこしは、ある。」
「あたしに下さい。」色気も何もあったものでない。「こまっているのよ。本当に、ことしの暮ほど困った事は無い。上の娘をよそにかたづけて、まず一安心と思っていたら、それがあなた、一年経つか経たないうちに、乞食《こじき》のような身なりで赤子をかかえ、四、五日まえにあたしのところへ帰って来て、亭主が手拭《てぬぐ》いをさげて銭湯へ出かけて、それっきり他《ほか》の女のところへ行ってしまった、と泣きながら言うけれど、馬鹿らしい話じゃありませんか。娘もぼんやりだけど、その亭主もひどいじゃありませんか。育ちがいいとかいって、のっぺりした顔の、俳諧《はいかい》だか何だかお得意なんだそうで、あたしは、はじめっから気がすすまなかったのに、娘が惚れ込んでしまっているものだから、仕方なく一緒にさせたら、銭湯へ行ってそのまま家へ帰らないとは、あんまり人を踏みつけていますよ。笑い事じゃない。娘はこれから赤子をかかえて、どうなるのです。」
「それでは、お前さんに孫もあるのだね。」
「あります。」とにこりともせず言い切って、ぐいと振り挙げた顔は、凄《すご》かった。「馬鹿にしないで下さい。あたしだって、人間のはしくれです。子も出来れば、孫も出来ます。なんの不思議も無いじゃないか。お金を下さいよ。あなた、たいへんなお金持だっていうじゃありませんか。」と言って、頬《ほお》をひきつらせて妙に笑った。
粋人には、その笑いがこたえた。
「いや、そんなでもないが、少しなら、あるよ。」とうろたえ気味で、財布から、最後の一歩金を投げ出し、ああ、いまごろは、わが家の女房、借金取りに背を向けて寝て、死んだ振りをしているであろう、この一歩金一つでもあれば、せめて三、四人の借金取りの笑顔を見る事は出来るのに、思えば、馬鹿な事をした、と後悔やら恐怖やら焦躁《しょうそう》やらで、胸がわくわくして、生きて居られぬ気持になり、
「ああ、めでたい。婆の占いが、男の子とは、うれしいね。なかなか話せる婆ではないか。」
とかすれた声で言ってはみたが、蕾は、ふんと笑って、
「お酒でもうんと飲んで騒ぎましょうか。」と万事を察してお銚子《ちょうし》を取りに立った。
客はひとり残されて、暗憺《あんたん》、憂愁、やるかたなく、つい、苦しまぎれのおならなど出て、それもつまらない思いで、立ち上って障子をあけて匂《にお》いを放散させ、
「あれわいさのさ。」と、つきもない小唄《こうた》を口ずさんで見たが一向に気持が浮き立たず、やがて、三十九歳の蕾を相手に、がぶがぶ茶碗酒《ちゃわんざけ》をあおっても、ただ両人まじめになるばかりで、顔を見合せては溜息《ためいき》をつき、
「まだ日が暮れぬか。」
「冗談でしょう。おひるにもなりません。」
「さてさて、日が永い。」
地獄の半日は、竜宮《りゅうぐう》の百年千年。うで卵のげっぷばかり出て悲しさ限りなく、
「お前さんはもう帰れ。わしはこれから一寝入りだ。眼が覚めた頃には、お産もすんでいるだろう。」と、いまは、わが嘘にみずから苦笑し、ごろりと寝ころび、
「本当にもう、帰ってくれ。その顔を二度とふたたび見せてくれるな。」と力無い声で歎願《たんがん》した。
「ええ、帰ります。」と蕾は落ちついて、客のお膳《ぜん》の数の子を二つ三つ口にほうり込み、「ついでに、おひるごはんを、ここでごちそうになりましょう。」と言った。
客は眼をつぶっても眠られず、わが身がぐるぐる大渦巻《おおうずまき》の底にまき込まれるような気持で、ばたんばたんと寝返りを打ち、南無阿弥陀《なむあみだ》、と思わずお念仏が出た時、廊下に荒き足音がして、
「やあ、ここにいた。」と、丁稚《でっち》らしき身なりの若い衆二人、部屋に飛び込んで来て、「旦那、ひどいじゃないか。てっきり、この界隈《かいわい》と見込みをつけ、一軒一軒さがして、いやもう大骨折さ。無いものは、いただこうとは申しませんが、こうしてのんきそうに遊ぶくらいのお金があったら、少しはこっちにも廻してくれるものですよ。ええと、ことしの勘定は、」と言って、書附けを差出し、寝ているのを引起して、詰め寄って何やら小声で談判ひとしきりの後、財布の小粒銀ありったけ、それに玉虫色のお羽織、白柄《しらつか》の脇差、着物までも脱がせて、若衆二人それぞれ風呂敷《ふろしき》に包んで、
「あとのお勘定は正月五日までに。」と言い捨て、いそがしそうに立ち去った。
粋人は、下着一枚の奇妙な恰好《かっこう》で、気味わるくにやりと笑い、
「どうもねえ、友人から泣きつかれて、判を押してやったが、その友人が破産したとやら、こちらまで、とんだ迷惑。金を貸すとも、判は押すな、とはここのところだ。とかく、大晦日には、思わぬ事がしゅったい致す。この姿では、外へも出られぬ。暗くなるまで、ここで一眠りさせていただきましょう。」と、これはまたつらい狸寝入《たぬきねい》り、陰陽、陰陽と念じて、わが家の女房と全く同様の、死んだ振りの形となった。
台所では、婆と蕾が、「馬鹿というのは、まだ少し脈のある人の事」と話合って大笑いである。とかく昔の浪花《なにわ》あたり、このような粋人とおそろしい茶屋が多かったと、その昔にはやはり浪花の粋人のひとりであった古老の述懐。
[#地から2字上げ](胸算用《むねさんよう》、巻二の二、訛言《うそ》も只《ただ》は聞かぬ宿)
[#改ページ]
遊興戒
むかし上方《かみがた》の三粋人、吉郎兵衛《きちろべえ》、六右衛門《ろくえもん》、甚太夫《じんだゆう》とて、としは若《わか》し、家に金あり、親はあまし、男振りもまんざらでなし、しかも、話にならぬ阿呆《あほう》というわけでもなし、三人さそい合って遊び歩き、そのうちに、上方の遊びもどうも手ぬるく思われて来て、生き馬の目を抜くとかいう東国の荒っぽい遊びを風聞してあこがれ、或《あ》るとし秋風に吹かれて江戸へ旅立ち、途中、大笑いの急がぬ旅をつづけて、それにしても世の中に美人は無い、色が白ければ鼻が低く、眉《まゆ》があざやかだと思えば顎《あご》が短い、いっそこうなれば女に好かれるよりは、きらわれたい、何とかして思い切りむごく振られてみたいものさ、などと天を恐れぬ雑言《ぞうごん》を吐き散らして江戸へ着き、あちらこちらと遊び廻《まわ》ってみても、別段、馬の目を抜く殺伐なけしきは見当らず、やはりこの江戸の土地も金次第、どこへ行っても下にも置かずもてなされ、甚《はなは》だ拍子抜けがして、江戸にもこ
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