重い太鼓なんか担がせられて、あいたたた、あたしゃまた神経痛が起って来た。あしたから、あなたが、ごはんをたくのですよ。薪《まき》も割ってもらわなくちゃこまるし、糠味噌《ぬかみそ》もよく掻《か》きまわして、井戸は遠いからいい気味だ、毎朝|手桶《ておけ》に五はいくんで来て台所の水甕《みずがめ》に、あいたたた、馬鹿な亭主を持ったばかりに、あたしは十年寿命をちぢめた。」と喚《わめ》き、その翌《あく》る日の組も同じ事、いずれも女は不平たらたら、男はひとしく口汚くののしられて、女子と小人は養い難《がた》しと眼をかたくつぶって観念する者もあり、家へ帰って矢庭《やにわ》に女房をぶん殴って大立廻りを演じ離縁騒ぎをはじめた者もあり、運悪く大雪の日の番に当った一組は、ひとしお女房の歎きやら呪《のろ》いやらが猛烈を極め、共に風邪をひき、家へ帰って床を並べて寝込んでしまって咳《せき》にむせかえりながらも烈《はげ》しく互いに罵倒《ばとう》し合い、太鼓の仕置きも何の事は無い、女の口の悪さを暴露したという結果に終っただけのようであった。十組のお仕置きが全部すんでから、また改めて皆にお呼び出しがあり、一同|不機嫌《ふきげん》のふくれつらでお白州にまかり出ると、板倉殿はにこにこ笑い、
「いや、このたびは御苦労であった。太鼓の担ぎ賃として、これは些少《さしょう》ながら、それがしからの御礼だ。失礼ではあろうが、笑って受取ってもらいたい。風邪をひいて二、三日寝込んだ夫婦もあったとか、もはや本服したろうが、お見舞いとして別に一封包んで置いた。こだわり無く収めていただきたい。このたび仲間の窮迫を見かねて金十両ずつ出し合って救ったとは近頃めずらしい美挙、いつまでもその心掛けを忘れぬよう。それにもかかわらず、あのような重い太鼓をかつがせ、その上、男どもは、だいぶ女連にやられていたようで、気の毒に思っている。まあ、何事も水に流して、この後は仲良く家業にはげむよう。ところで、この中の一組、太鼓をかついで杉林にさしかかった頃から女房が悪鬼に憑《つ》かれたように物狂わしく騒ぎ立て、亭主の過去のふしだらを一つ一つ挙げてののしり、亭主が如何《いか》になだめても静まらず、いよいよ大声で喚き散らすゆえ、亭主は困却し果て、杉林を抜けて畑にさしかかった頃、あたりをはばかる小さい声で、騒ぐな、うらむな、太鼓の難儀もいましばしの辛抱、百両の金は、わしたちのもの、家へ帰ってから戸棚《とだな》の引出しをあけて見ろ、と不思議な事を言った。言った者には、覚えのある筈《はず》。いや、それがしは神通力も何も持っていない。あの赤い太鼓は重かったであろう。あの中に小坊主《こぼうず》ひとりいれて置いた。委細はその小坊主から聞いて知った。言った者を、いまここで名指しをするのは容易だが、この者とて、はじめは真の情愛を以《もっ》てこのたびの美挙に参加したのに違いなく、酒の酔いに心が乱れ、ふっと手をのばしただけの事と思われる。命はたすける。おかみの慈悲に感じ、今夜、人目を避けて徳兵衛の家の前にかの百両の金子を捨てよ。然《しか》る後は、当人の心次第、恥を知る者ならば都から去れ。おかみに於《お》いては、とやかくの指図無し。一同、立て。以上。」
[#地から2字上げ](本朝桜陰比事、巻一の四、太鼓の中は知らぬが因果)
[#改ページ]
粋人
「ものには堪忍《かんにん》という事がある。この心掛けを忘れてはいけない。ちっとは、つらいだろうが我慢をするさ。夜の次には、朝が来るんだ。冬の次には春が来るさ。きまり切っているんだ。世の中は、陰陽、陰陽、陰陽と続いて行くんだ。仕合せと不仕合せとは軒続きさ。ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。ここの道理を忘れちゃいけない。来年は、これあ何としても大吉にきまった。その時にはお前も、芝居の変り目ごとに駕籠《かご》で出掛けるさ。それくらいの贅沢《ぜいたく》は、ゆるしてあげます。かまわないから出掛けなさい。」などと、朝飯を軽くすましてすぐ立ち上り、つまらぬ事をもっともらしい顔して言いながら、そそくさと羽織をひっかけ、脇差《わきざし》さし込み、きょうは、いよいよ大晦日《おおみそか》、借金だらけのわが家から一刻も早くのがれ出るふんべつ。家に一銭でも大事の日なのに、手箱の底を掻《か》いて一歩金《いちぶきん》二つ三つ、小粒銀三十ばかり財布に入れて懐中にねじ込み、「お金は少し残して置いた。この中から、お前の正月のお小遣いをのけて、あとは借金取りに少しずつばらまいてやって、無くなったら寝ちまえ。借金取りの顔が見えないように、あちら向きに寝ると少しは気が楽だよ。ものには堪忍という事がある。きょう一日の我慢だ。あちら向きに寝て、死んだ振りでもしているさ。世の中は、陰陽、陰陽。」と言い捨てて、小走りに走って家を出た。
家を出ると、急にむずかしき顔して衣紋《えもん》をつくろい、そり身になってそろりそろりと歩いて、物持の大旦那《おおだんな》がしもじもの景気、世のうつりかわりなど見て廻《まわ》っているみたいな余裕ありげな様子である。けれども内心は、天神様や観音様、南無八幡大菩薩《なむはちまんだいぼさつ》、不動明王|摩利支天《まりしてん》、べんてん大黒、仁王《におう》まで滅茶《めちゃ》苦茶にありとあらゆる神仏のお名を称《とな》えて、あわれきょう一日の大難のがれさせ給《たま》え、たすけ給えと念じて眼《め》のさき真暗、全身|鳥肌《とりはだ》立って背筋から油汗がわいて出て、世界に身を置くべき場所も無く、かかる地獄の思いの借財者の行きつくところは一つ。花街である。けれどもこの男、あちこちの茶屋に借りがある。借りのある茶屋の前は、からだをななめにして蟹《かに》のように歩いて通り抜け、まだいちども行った事の無い薄汚い茶屋の台所口からぬっとはいり、
「婆はいるか。」と大きく出た。もともとこの男の人品骨柄《じんぴんこつがら》は、いやしくない。立派な顔をしている男ほど、借金を多くつくっているものである。悠然《ゆうぜん》と台所にあがり込み、「ほう、ここはまだ、みそかの支払いもすまないと見えて、あるわ、あるわ、書附《かきつ》けが。ここに取りちらかしてある書附け、全部で、三、四十両くらいのものか。世はさまざま、|〆《しめ》て三、四十両の支払いをすます事も出来ずに大晦日を迎える家もあり、また、わしの家のように、呉服屋の支払いだけでも百両、お金は惜しいと思わぬが、奥方のあんな衣裳《いしょう》道楽は、大勢の使用人たちの手前、しめしのつかぬ事もあり、こんどは少しひかえてもらわなくては困るです。こらしめのため、里へかえそうかなどと考えているうちに、あいにくと懐姙《かいにん》で、しかも、きょうこの大晦日のいそがしい中に、産気づいて、早朝から家中が上を下への大混雑。生れぬさきから乳母を連れて来るやら、取揚婆《とりあげばば》を三人も四人も集めて、ばかばかしい。だいたい、大長者から嫁をもらったのが、わしの不覚。奥方の里から、けさは大勢見舞いに駈《か》けつけ、それ山伏、それ祈祷《きとう》、取揚婆をこっちで三人も四人も呼んで来てあるのに、それでも足りずに医者を連れて来て次の間に控えさせ、これは何やら早め薬とかいって鍋《なべ》でぐつぐつ煮てござる。安産のまじないに要るとか言って、子安貝《こやすがい》、海馬《かいば》、松茸《まつたけ》の石づき、何の事やら、わけのわからぬものを四方八方に使いを走らせて取寄せ、つくづく金持の大袈裟《おおげさ》な騒ぎ方にあいそがつきました。旦那様は、こんな時には家にいぬものだと言われて、これさいわい、すたこらここへ逃げて来ました。まるでこれでは、借金取りに追われて逃げて来たような形です。きょうは大晦日だから、そんな男もあるでしょうね。気の毒なものだ。いったいどんな気持だろう。酒を飲んでも酔えないでしょうね。いやもう、人さまざま、あはははは。」と力の無い笑声を発し、「時にどうです。言うも野暮だが、もちろん大晦日の現金払いで、子供の生れるまで、ここで一日あそばせてくれませんか。たまには、こんな小さい家で、こっそり遊ぶのも悪くない。おや、正月の鯛《たい》を買いましたね。小さい。家が小さいからって遠慮しなくたっていいでしょう。何も縁起ものだ。もっと大きいのを買ったらどう?」と軽く言って、一歩金一つ、婆の膝《ひざ》の上に投げてやった。
婆は先刻から、にこにこ笑ってこの男の話に相槌《あいづち》を打っていたが、心の中で思うよう、さてさて馬鹿《ばか》な男だ、よくもまあそんな大嘘《おおうそ》がつけたものだ、お客の口先を真に受けて私たちの商売が出来るものか。酔狂のお旦那がわざと台所口からはいって来て、私たちをまごつかせて喜ぶという事も無いわけではないが、眼つきが違いますよ。さっき、台所口から覗《のぞ》いたお前さんの眼つきは、まるで、とがにんの眼つきだった。借金取りに追われて来たのさ。毎年、大晦日になると、こんなお客が二、三人あるんだ。世間には、似たものがたくさんある。玉虫色のお羽織に白柄《しらつか》の脇差、知らぬ人が見たらお歴々と思うかも知れないが、この婆の目から見ると無用の小細工。おおかた十五も年上の老い女房《にょうぼう》をわずかの持参金を目当てにもらい、その金もすぐ使い果し、ぶよぶよ太って白髪頭《しらがあたま》の女房が横|坐《ずわ》りに坐って鼻の頭に汗を掻《か》きながら晩酌《ばんしゃく》の相手もすさまじく、稼《かせ》ぎに身がはいらず質八《しちばち》置いて、もったいなくも母親には、黒米の碓《からうす》をふませて、弟には煮豆売りに歩かせ、売れ残りの酸《す》くなった煮豆は一家のお惣菜《そうざい》、それも母御の婆《ばあ》さまが食べすぎると言って夫婦でじろりと睨《にら》むやつさ。それにしても、お産の騒ぎとは考えた。取揚婆が四人もつめかけ、医者は次の間で早め薬とは、よく出来た。お互いに、そんな身分になりたいものさね。大阿呆《おおあほう》め。お金は、それでもいくらか持っているようだし、現金払いなら、こちらは客商売、まあ、ごゆるりと遊んでいらっしゃい。とにかく、この一歩金、いただいて置きましょう、贋金《にせがね》でもないようだ。
「やれうれしや、」と婆はこぼれるばかりの愛嬌《あいきょう》を示して、一歩金を押しいただき、「鯛など買わずに、この金は亭主《ていしゅ》に隠して置いて、あたしの帯でも買いましょう。おほほほ。ことしの年の暮は、貧乏神と覚悟していたのに、このような大黒様が舞い込んで、これで来年中の仕合せもきまりました。お礼を申し上げますよ、旦那。さあ、まあ、どうぞ。いやですよ、こんな汚い台所などにお坐りになっていらしては。洒落《しゃれ》すぎますよ。あんまり恐縮で冷汗が出るじゃありませんか。なんぼ何でも、お人柄にかかわりますよ。どうも、長者のお旦那に限って、台所口がお好きで、困ってしまいます。貧乏所帯の台所が、よっぽどもの珍らしいと見える。さ、粋《すい》にも程度がございます。どうぞ、奥へ。」世におそろしきものは、茶屋の婆のお世辞である。
お旦那は、わざとはにかんで頭を掻き、いやもう婆にはかなわぬ、と言ってなよなよと座敷に上り、
「何しろたべものには、わがままな男ですから、そこは油断なく、たのむ。」と、どうにもきざな事を言った。婆は内心いよいよ呆《あき》れて、たべものの味がわかる顔かよ。借金で首がまわらず青息吐息で、火を吹く力もないような情ない顔つきをしている癖に、たべものにわがままは大笑いだ。かゆの半杯も喉《のど》には通るまい。料理などは、むだな事だ、と有合せの卵二つを銅壺《どうこ》に投げ入れ、一ばん手数のかからぬ料理、うで卵にして塩を添え、酒と一緒に差出せば、男は、へんな顔をして、
「これは、卵ですか。」
「へえ、お口に合いますか、どうですか。」と婆は平然たるものである。
男は流石《さすが》に手をつけかね、腕組みして渋面つくり、
「この辺は卵の産地か。何か由緒《ゆいしょ》があらば、聞きたい。」
婆は噴き出したいのを怺《こら》えて、
「いいえ
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