入海《いりうみ》のほとりにたどりつき、そこから便船を求め、きょうのうちに次の港まで行くつもりで相客五、六人と北国の冬には珍らしく空もよく晴れ静かな海を船出して、汀《みぎわ》から八丁ほど離れた頃《ころ》、風も無いのに海がにわかに荒れ出して、船は木の葉の如く飜弄《ほんろう》せられ、客は恐怖のために土色の顔になって、思う女の名を叫び出し、さらばよ、さらばよ、といやらしく悶《もだ》えて見せる者もあり、笈《おい》の中より観音経《かんのんぎょう》を取出し、さかさとも知らず押しいただき、そのまま開いておろおろ読み上げる者もあり、瓢箪《ひょうたん》を引き寄せ中に満たされてある酒を大急ぎで口呑《くちの》みして、これを飲みのこしては死んでも死にきれぬ、からになった瓢箪は浮袋になります、と五寸にも足りぬその小さいひさごを、しさいらしい顔つきで皆に見せびらかす者もあり、なんの意味か、しきりに指先で額《ひたい》に唾《つば》をなすりつけている者もあり、いそがしげに財布を出して金勘定、一両足りぬと呟《つぶや》いてあたりの客をいやな眼つきで睨《にら》む者もあり、いのちの瀬戸際《せとぎわ》にも、足がさわったとやらで無用
前へ
次へ
全209ページ中55ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング