ばしば有りとの事、いわんや他国のわれら、抜山《ばつざん》の勇ありといえども、血気だけでは、この川渡ることむずかしく、式部はきょう一日、その水癲癇とやら奇病にでも何にでも相成りますから、どうか式部の奇病をあわれに思召《おぼしめ》して、川を越える事はあすになさって下さい。」と涙を流して懇願した。
 まことの臆病者の丹三郎は、口ではあんな偉そうな事を言ったものの、蛸め、つづけ! と若殿に言われた時には、くらくらと眩暈《めまい》がして、こりゃもうどうしようと、うろうろしたが、式部が若殿をいさめてくれたので、ほっとして、真青な顔に奇妙な笑いを無理に浮べ、「ちえ、残念。」と言った。
 それがいけなかった。その出鱈目《でたらめ》の言葉が若殿の気持をいっそう猛《たけ》り立たせた。
「蛸め。式部は卑怯《ひきょう》だ。かまわぬ、つづけ!」と式部の手のゆるんだすきを見て駒に一鞭《ひとむち》あて、暴虎馮河《ぼうこひょうが》、ざんぶと濁流に身をおどらせた。式部もいまはこれまでと観念し、
「それ! 若殿につづけ。」とお供の者たちに烈《はげ》しく下知した。いずれも屈強の供の武士三十人、なんの躊躇《ちゅうちょ》も無く
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