水を増してもおそろしいとは思いませぬが、しかし、生れつき水癲癇《みずてんかん》と申して、どのように弓馬の武芸に達していても、この水を見るとおそろしくぶるぶる震えるという奇病があって、しかもこれは親から子へ遺伝するものだそうで。」
若殿は笑って、
「奇妙な病気もあるものだ。まさか式部は、その水癲癇とやらいう病気でもあるまいが、どうだ、蛸め、われら二人抜け駈《が》けてこの濁流に駒《こま》をすすめ、かの宇治川《うじがわ》先陣、佐々木と梶原《かじわら》の如《ごと》く、相競って共に向う岸に渡って見せたら、臆病《おくびょう》の式部はじめ供の者たちも仕方なく後からついて来るだろう。なんとしてもきょうのうちに、この大井川を渡って島田の宿に着かなければ、西国武士の名折れだぞ。蛸め、つづけ。」と駒に打ち乗り、濁流めがけて飛び込もうとするので式部もここは必死、篠《しの》つく雨の中を蓑《みの》も笠《かさ》もほうり投げて若殿の駒の轡《くつわ》に取り縋《すが》り、
「おやめなさい、おやめなさい。式部かねて承るに大井川の川底の形状変転常なく、その瀬その淵《ふち》の深浅は、川越しの人夫さえ踏違《ふみたが》えることし
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