む》った後には共にわずらい寝たきりになって、猿の吉兵衛は夜も眠らずまめまめしく二人を看護し、また七日々々にお坊ちゃんの墓所へ参り、折々の草花を手折って供え、夫婦すこしく恢復《かいふく》せし百日に当る朝、吉兵衛しょんぼりお墓に参って水心静かに手向け、竹の鉾《ほこ》にてみずから喉笛《のどぶえ》を突き通して相果てた。夫婦、猿の姿の見当らぬを怪しみ、杖《つえ》にすがってまず菊之助の墓所へ行き、猿のあわれな姿をひとめ見て一切を察し、菊之助無き後は、せめてこの吉兵衛だけが世の慰めとたのんでいたのに、と恨《うら》み嘆き、ねんごろに葬《とむら》い、菊之助の墓の隣に猿塚を建て、その場に於《お》いて二人出家し、(と書いて作者は途方にくれた。お念仏かお題目か。原文には、かの庵に絶えず題目唱えて、法華|読誦《どくじゅ》の声やまず、とある。徳右衛門の頑固《がんこ》な法華の主張がこんなところに顔を出しては、この哀話も、ぶちこわしになりそうだ。困った事になったものである。)ふたたび、庵に住むも物憂く、秋草をわけていずこへとも無く二人旅立つ。
[#地から2字上げ](懐硯《ふところすずり》、巻四の四、人真似は猿の行水)
[#改ページ]
人魚の海
後深草《ごふかくさ》天皇|宝治《ほうじ》元年三月二十日、津軽の大浦というところに人魚はじめて流れ寄り、其《そ》の形は、かしらに細き海草の如《ごと》き緑の髪ゆたかに、面《おもて》は美女の愁《うれ》えを含み、くれないの小さき鶏冠《とさか》その眉間《みけん》にあり、上半身は水晶《すいしょう》の如く透明にして幽《かす》かに青く、胸に南天の赤き実を二つ並べ附《つ》けたるが如き乳あり、下半身は、魚の形さながらにして金色の花びらとも見まがうこまかき鱗《うろこ》すきまなく並び、尾鰭《おひれ》は黄色くすきとおりて大いなる銀杏《いちょう》の葉の如く、その声は雲雀笛《ひばりぶえ》の歌に似て澄みて爽《さわ》やかなり、と世の珍らしきためしに語り伝えられているが、とかく、北の果の海には、このような不思議の魚も少からず棲息《せいそく》しているようである。むかし、松前《まつまえ》の国の浦奉行《うらぶぎょう》、中堂金内《ちゅうどうこんない》とて勇あり胆あり、しかも生れつき実直の中年の武士、或《あ》るとしの冬、お役目にて松前の浦々を見廻《みまわ》り、夕暮ちかく鮭川《さけがわ》という入海《いりうみ》のほとりにたどりつき、そこから便船を求め、きょうのうちに次の港まで行くつもりで相客五、六人と北国の冬には珍らしく空もよく晴れ静かな海を船出して、汀《みぎわ》から八丁ほど離れた頃《ころ》、風も無いのに海がにわかに荒れ出して、船は木の葉の如く飜弄《ほんろう》せられ、客は恐怖のために土色の顔になって、思う女の名を叫び出し、さらばよ、さらばよ、といやらしく悶《もだ》えて見せる者もあり、笈《おい》の中より観音経《かんのんぎょう》を取出し、さかさとも知らず押しいただき、そのまま開いておろおろ読み上げる者もあり、瓢箪《ひょうたん》を引き寄せ中に満たされてある酒を大急ぎで口呑《くちの》みして、これを飲みのこしては死んでも死にきれぬ、からになった瓢箪は浮袋になります、と五寸にも足りぬその小さいひさごを、しさいらしい顔つきで皆に見せびらかす者もあり、なんの意味か、しきりに指先で額《ひたい》に唾《つば》をなすりつけている者もあり、いそがしげに財布を出して金勘定、一両足りぬと呟《つぶや》いてあたりの客をいやな眼つきで睨《にら》む者もあり、いのちの瀬戸際《せとぎわ》にも、足がさわったとやらで無用の口論をはじめる者もあり人さまざまに騒ぎ立て、波はいよいよ高く、船は上下に荒く震動し、いまは騒ぐ力も尽き、船頭がまず船底にたおれ伏し、おゆるしなされ、と呻《うめ》いて死んだようにぐたりとなれば、船中の客、総泣きに泣き伏して、いずれも正体を失い、中堂金内ただひとり、はじめから舷《ふなばた》を背にしてあぐらを掻《か》き、黙って腕組して前方を見つめていたが、やがて眼《め》のさきの海水が金色に変り、五色の水玉噴き散ると見えしと同時に、白波二つにわれて、人魚、かねて物語に聞いていたのと同じ姿であらわれ、頭を振って緑の髪をうしろに払いのけ、水晶の腕で海水を一掻き二掻きするすると蛇《へび》の如く素早く金内の船に近づき、小さく赤い口をあけて一声爽やかな笛の音。おのれ船路のさまたげと、金内怒って荷物の中より半弓《はんきゅう》を取出し、神に念じてひょうと射れば、あやまたずかの人魚の肩先に当り、人魚は声もなく波間に沈み、激浪たちまち収まって海面はもとのように静かになり、斜陽おだやかに船中にさし込み、船頭は間抜《まぬ》け面《づら》で起き上り、なんだ夢か、と言った。金内は、おのれの手柄《てがら》を矢鱈《やたら》
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