味しはじめたので、女房たちまち顔色を変え眼を吊り上げ、向う三軒両隣りの家の障子が破れるほどの大声を挙げ、
「あれあれ、いやらし。男のくせに、そんなちぢれ髪に油なんか附《つ》けて、鏡を覗《のぞ》き込んで、きゅっと口をひきしめたり、にっこり笑ったり、いやいやをして見たり、馬鹿《ばか》げたひとり芝居をして、いったいそれは何の稽古《けいこ》のつもりです、どだいあなたは正気ですか、わかっていますよ、あさましい。あたしの田舎の父は、男というものは野良姿《のらすがた》のままで、手足の爪《つめ》の先には泥《どろ》をつめて、眼脂《めやに》も拭《ふ》かず肥桶《こえおけ》をかついでお茶屋へ遊びに行くのが自慢だ、それが出来ない男は、みんな茶屋女の男めかけになりたくて行くやつだ、とおっしゃっていたわよ、そんなちぢれ髪を撫でつけて、あなたはそれで茶屋の婆芸者の男めかけにでもなる気なのでしょう、わかっていますよ、けちんぼのあなたの事ですから、なるべくお金を使わず、婆芸者にでも泣きついて男めかけにしてもらって、あわよくば向うからお小遣いをせしめてやろうという、いいえ、わかっていますよ、くやしかったら肥桶をかついでお出掛けなさい、出来ないでしょう、なんだいそんな裏だか表だかわからないような顔をして、鏡をのぞき込んでにっこり笑ったりして、ああ、きたない、そんな事をするひまがあったら鼻毛でも剪《つ》んだらどう? 伸びていますよ、くやしかったら肥桶をかついで、」とうるさい事、うるさい事。かねて、こんな時にこそ焼きもちを焼いてもらうために望んでめとった女房ではあったが、さて、実際こんな工合《ぐあ》いに騒がしく悋気を起されてみると、あまりいい気持のものでない。養父母の気にいられようと思って、悋気の強い女房こそ所望でございます、などと分別顔して言い出したばかりに、これは、とんでもない事になった、と今はひそかに後悔した。ぶん殴ってやろうかとも思うのだが、隠居座敷の老夫婦は、嫁の悋気がはじまるともう嬉《うれ》しくてたまらないらしく、老夫婦とも母屋《おもや》まで這《は》い出して来て、うふふと笑いながら、まあまあ、などといい加減な仲裁をして、そうして惚《ほ》れ惚《ぼ》れと嫁の顔を眺《なが》める仕末なので、ぶん殴るわけにもいかず、さりとて、肥桶をかついで遊びに出掛けるのも馬鹿々々しく思われ、腹いせに銭湯に出かけて、眼まい
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