れると、うれしいよりは、いっそうわが身がつらく不仕合せに思われて来るものである。東西を失い男泣きに泣いて、いまはわが身の終りと観念し、涙をこぶしで拭《ふ》いて顔を挙げ、なおも泣きじゃくりながら、
「かたじけなく存じます。さきほどの百右衛門のかずかずの悪口、聞き捨てになりがたく、金内軽輩ながら、おのれ、まっぷたつと思いながらも、殿の御前なり、忍ぶべからざるを忍んで、ただ、くやし涙にむせていましたが、もはや覚悟のほどが極《きま》りました。ただいまこれより追い駈《か》けて、かの百右衛門を一刀のもとに切り捨てるのは最も易《やす》い事ですが、それでは家中の人たちは、金内は百右衛門のために嘘《うそ》を見破られて、くやしさの余り刃傷《にんじょう》に及んだと言い、それがしの人魚の話もいよいようろんの事になって、御貴殿にも御迷惑をおかけする結果に相成りますから、どうせもう、すたりものになったこの身、死におくれついでに今すこし命ながらえ、鮭川の入海を詮議《せんぎ》して、弓矢八幡お見捨てなく、かの人魚の死骸《しがい》を見つけた時は、金内の武運もいまだ尽きざる証拠、是《これ》を持参して一家中に見せ、しかるのち、百右衛門を心置きなく存分に打ち据《す》え、この身もうれしく切腹の覚悟。」と申せば武蔵は、いじらしさに、もらい泣きして、
「武蔵が無用の出しゃばりして、そなたの手柄《てがら》を殿に御披露したのが、わるかった。わけもない人魚の論などはじめて、あたら男を死なせねばならぬ。ゆるせ金内、来世は武士に生れぬ事じゃのう。」顔をそむけて立ち上り、「留守は心配ないぞ。」と強く言って広間から退出した。
 金内の私宅には、八重ということし十六になる色白く目鼻立ち鮮やかな大柄な娘と、鞠《まり》という小柄で怜悧《れいり》な二十一歳の召使いと二人住んでいるだけで、金内の妻は、その六年前にすでに病歿していた。金内はその日努めて晴れやかな顔をして私宅へ帰り、父はまたすぐ旅に出かける、こんどの旅は少し永いかも知れぬから留守に気を附けよ、とだけ言って、貯《たくわ》えの金子《きんす》ほとんど全部をふところにねじ込み、逃げるようにして家を出た。
「お父さまは、へんね。」と八重は、父を送り出してから、鞠に言った。
「さようでございます。」鞠は落ちついて同意した、金内は、ひとをあざむく事は、下手である。いくら陽気に笑ってみせて
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